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vol.36 真夜中に走る自転車 4

疲れから来る猛烈な眠気と戦いながら、塔子は差し出される書類にざっと目を通し、サインをしていった。もう、日付けは変わっている。いつの間にやら日曜日だったはずが、月曜日になってしまったのだ。

看護師が塔子に向かって小声で説明をしている間中、母は動く方の手を振り回し、何事かを懸命に訴えていた。ろれつが回っていないため、近くに行かなければ、何を言っているのかはわからない。塔子は一回一回席を立って、母の元へ近付いて耳を傾けたが、やがてそれが頻繁に繰り返され、手続きや説明の妨げになると判断したのか、看護師は立ち上がろうとする塔子を手で制して、話を中断する事はなくなった。

「この書類もね、サインが必要なの」
差し出された書類は、身体拘束の重要性について書かれたものだった。
「起き上がろうとしてベッドから落ちて、骨折する場合もあるの。動く方の手で点滴を抜いてしまう可能性もあるのね。ですからここでは承諾を得て拘束させてもらっているのよ。患者さんにとって安全な入院生活を送っていただくためにね。ご理解いただけましたか?」
母と同じくらいの歳の看護師は、早口でそう言って、署名欄を指で差した。
「……これは、ここに入院されている皆さん、されている事なんですか?」
「そうですね。症状がお一人お一人違いますから、一概には言えませんが。お母様の場合ですと、足は今どちらも動いていない状態ですので、片手のみミトンをさせてもらう事になります」
塔子はペンを持ったまま、しばし考え込んだ。だめだ。自分一人で判断するには、あまりにも事が大き過ぎる。一体、どうすればいいのだろう。誰にこの大きく深い問題を相談すればいいのだろう。

誰もいない。いないのだ。
父はもうすでに新しい家庭を持って、幸せに暮らしている。疎遠になって何年も経つ。自分の旦那である彼は、火の粉が自分に飛んで来ようものなら、必死になって逃げ回り、塔子を盾にする男だ。弟は、今や遠く離れた地で暮らしている。
誰も相談する人がいないのだ。自分で決断するしかないのだ。

塔子は揺れる頭を片手で押え、やがて決心したように、署名欄に自分の名前を書き込んだ。
これで、本当にいいのか? 自分は間違った決断をしているのではないか? サインをしながらも、塔子の心はまだ揺れていたが、こうするより他にない事もわかっていた。現実問題、治療の妨げになったり、他の入院患者の迷惑になる事もあるだろう。名前を書き込んで、塔子は看護師に書類を渡した。涙は出なかった。ただ、自責の念が深く刻み込まれただけだった。

あらかたのサインが終わり、明日の朝10時に保険証と印鑑をお持ちになって詰所にお越しください、と言われ、塔子はやっと解放された。母を覗くと、すでに眠っている。時計に目をやると、1時を少し回ったところだった。
長い廊下を抜け、エレベーターホールへと歩く。疲れからか、眠気からか、あまりにも多くの事柄が同時に一気に押し寄せたからか、塔子の足元はフラフラした。確か、つい数時間前まで、自分は家族とファミレスにいたのだ。それは、なんて遠い昔の事のように思えるか。
エレベーターに乗り込み、ふと女医の豊井の事を思い出した。よかった。豊井に出くわす事は避けられた。今、こんなに疲れ切った今、豊井に会うのは無理だった。惨めに打ちのめされた自分を、あの女に見られるのは絶対に嫌だった。

自転車に跨り、しん、とした深夜の町へと、塔子は進んでいった。街灯は少なく、人は誰もいなかった。時折、車が塔子の背後からやって来て、通り過ぎるだけだった。
自転車をこいでもこいでも、先には進まなかった。暗闇の中、塔子は一人、もがいていた。とても現実とは思えなかった。

明日は、小学校へ入学したばかりの沙耶を送り出した後、海斗を幼稚園に送って行き、その後病院へ向かわなければならない。それまでにオムツとパッドの用意もしておかなければ。いや、明日ではない。これは、もう数時間後の予定なのだ……。

その日を境に、塔子の戦いは始まった。「若者介護」という名の、長く孤独な戦いが。

それは、一本の電話から始まった。その電話を取らなければ、あるいは未来は変わっていたかもしれない。後悔だったであろうか? いっそ、その淡い優しさの匂いすらするその感情を味わう方が、塔子の辿った現実の道よりも、いくらかマシだったのかもしれない。
しかし、それは逃れようのない定めだった。悪魔は息をひそめて背後から近付き、黒く不気味な長い手を伸ばして確信的に塔子の髪を掴んだのだ。ギラギラと赤い目を光らせ、それは無数に存在する獲物の中から、確固として塔子を選んだのだ。口元に笑みさえ浮かべながら。


このおはなしは、vol.20 「真夜中に走る自転車 1」、vol.27 「真夜中に走る自転車 2」、vol.31「真夜中に走る自転車 3」の続きとなっております。

真夜中に走る自転車1

真夜中に走る自転車2

真夜中に走る自転車3



↑いつもありがとうございます

あけましておめでとうございます

そして、ご無沙汰しております(笑)、しろ☆うさです

更新したいなーと思いつつ、色々とあってなかなか出来ませんでしたm(__)m

気付けば、もうお正月ムードも過ぎてますよね……(笑)。

新年のご挨拶がすっかり遅れてしまいましたが、今年もちょこちょこと更新していきますので、どうぞよろしくお願いいたしますm(__)m

今回のおはなし「真夜中に走る自転車」ですが、気付けばもう4!!なんですね~。

一応、今回でこの「真夜中~~」シリーズは完結です

やっと、真夜中に時刻が追いついた!って感じです(笑)!

今回の本編をお読み下さって、「女医の豊井」って誰!?と疑問を持たれた方は、vol. 8 「見知らぬ女医の叱咤」、vol. 13 「閉ざされた空間 1」、vol. 22 「閉ざされた空間 2」を読んで頂ければおわかりになるかと思います。

見知らぬ女医の叱咤

閉ざされた空間1

閉ざされた空間 2

最後になりましたが、いつも訪問下さり、ありがとうございます

そして、ブログランキングや拍手を押して下さっている方に、深く感謝しています

これからもゆっくりペースですが、続けていきたいと考えていますので、どうぞよろしくお願いいたします



↑いつもありがとうございます
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