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vol.17 回る世界1

目が覚めると、それはすでに始まっていた。
いつものように立ち上がろうとするのだが、目の前にあるはずの見慣れた景色が見えない。
いや、何かが見えるのは確かだが、それらは実態のない幽霊のように、形を持たない。何かが見える。けれど、見えない。足がガクガクと震え、真冬だというのに、額から胸から背中から、いたる所から大量の汗が噴き出すのを感じる。塔子はとっさに手を伸ばし、何か触れるものがあるかと探した。しかし、そこには何もない。塔子はその場でくずおれた。

微かに赤ちゃんの声がする。塔子の意識は徐々に戻りつつあった。一体、自分はどのくらいの時間、ここに倒れていたのだろう? 倒れた姿勢のまま、そっと頭を持ち上げる。時計はすでに朝の9時半を示しているように思うが、目の前のあらゆる物がはっきりとは見えない。猛烈な吐き気がする。そして、体が冷え切って冷たい。

「アブ……」
海斗の声がする。授乳の時間はとっくに過ぎている。海斗が生まれて四ヶ月。まだまだ夜中に一、二回は起きて、授乳やおむつ替えなどをしなくてはならない。昨夜は深夜の二時か三時頃、一度授乳しただけだ。あれから六時間以上は経っている。海斗はお腹をすかせているだろう。塔子はベビーベッドの柵に掴まり、なんとか体を起こした。目の前の見慣れた景色が、いつもとは違う。時計に始まり、ベビーベッドも、その中で眠っている海斗も、子供布団で眠っている沙耶も、壁もタンスも柱さえも、目に入る全ての物が、輪郭を失って反時計回りに動いている。それも、とてつもなく、速いスピードで。それは、単なる眩暈ではない。圧倒的な回転性を伴って、世界を破壊していくようだ。昨夜までは目の前に確固としてその位置に立ち尽くしていた物体が、今はもう竜巻の中に飲み込まれたように脆い存在となって、塔子をめがけて攻撃してくる。

塔子はベビーベッドを掴んでいた手を離し、壁に手をやったり柱を掴んだりしながら、なんとかキッチンの方へと向かった。服を着替えなければ。顔を洗わなければ。洗濯機を回さなければ。やらなければならない事は山程あるが、圧倒的な回転性の眩暈と猛烈な吐き気に襲われ、どれも出来そうにはなかった。しかし、子供の朝食だけは、用意しなければならない。塔子は何度も倒れ込みながら、沙耶の朝食の用意をしようとした。お乳を飲むのが下手で、いつも飲んでいる途中で疲れて眠ってしまう海斗のために、粉ミルクの用意もしておかなければならない。震える手で計量スプーンを握り、分量を量って除菌済みのミルク瓶へと注ぐ。……見えない。ミルクの分量がよく見えない。塔子は瓶を目の高さへと持ち上げたが、目まぐるしくグルグルと変わる景色の中で、その細かい数量を確認するのは不可能だった。塔子は諦め、彼に電話をした。一瞬、救急車を呼ぼうかと脳裏に過ったが、まだ幼稚園にも入っていない二歳の娘と、生まれて四ヶ月の赤ん坊の息子を置いて、自分だけ病院へ行ってしまうのはあまりにも無責任であると思い、止めた。

彼は仕事で戻っては来なかった。代わりに、自分の友達を寄こした。彼女は塔子を寝かせ、枕元に洗面器を用意してくれた。そして沙耶の朝食を作り、海斗にミルクを飲ませ、おむつを替えた。お昼になると、彼女は昼食を作った。塔子にも食べるように勧めたが、まるでつわりのピークの時のような吐き気と激し過ぎる眩暈にじっと体を横にして耐える事が精一杯だった塔子は、お礼しか言う事が出来なかった。やがて、彼が帰宅し、塔子を車に運び入れ、病院へと連れて行った。




しろ☆うさです いつも読んで下さって、ありがとうございます

そして、Blog Rankingや拍手を押して下さっている方にも感謝しています!

小説「ひとしずく」は、親子関係(主に母子関係)、夫婦関係、モラルハラスメントについて、問題を提示する形で書かせて頂いています。

主人公の塔子が二人の子持ちであったり、また違う話では独身であったりと、話は時代通りには進行していません。
が、全てショートストーリー形式、一話読み切りになっています。




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