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vol.121 目覚め 10 (ひとしずく 最終話)

足の裏がなんだかペタペタするような、最初はそんな軽いぬかるみであった。たくさんあったであろう行く末の、たった一つを選び取り歩き出した道筋は、塔子が予想していた未来より、遥かに複雑で困難だった。棘のある植物が至る所に生い茂り、行く手を阻んだ。進めば進むほど、それらは塔子の皮膚を突き刺し、深く後が残るほど傷つけた。見た事もないような気味の悪い昆虫が、不意に頭上から落ちてくる事もあった。それらは塔子の身体中を、もぞもぞと這い回った。悲鳴をあげて振り払おうにも、それらは服の中にまで入り込み、怖がる塔子の様子を見ては、さも愉快そうに下卑た笑い声を立てた。茨を押し退け、どうにか人ひとり通れるほどの隙間を作るのに必死で全く気付いてはいなかったが、足元のスニーカーは既に泥にまみれ、その色彩を失っていた。歩く度にたった一歩が踏み出せないほど重く感じた頃には、泥は膝下まで溜まっていた。引き返そうにも引き返せない状態で、鮮やかな赤い血を流している腕をただ闇雲に振り回しながら、一歩ずつ前に進んだ。辺りには誰もいなかった。人のいる気配は時折感じるのだが、それらは塔子には関与せず、また塔子も助けを求める事はなかった。泥が腰元まで浸る頃、塔子は背中に背負ったリュックサックを捨てようと、手を肩にかけた。その時、それがリュックなどではなく、父や母や弟である事に初めて気が付いた。背負っていたのは荷物ではなく、それは生身の人間だったのだ。後はよろしく、と父が言った。頑張ってもらわないと困る、と母が言った。ただ黙って申し訳なさそうな表情をしながら、弟も乗っていた。捨てられない。生身の人間を捨てて、自分だけ助かる事は出来ない。泥の海の中、生い茂る茨を掻き分け、進んでいくしかなかった。やがて行く手を阻む植物が消えた頃、泥は塔子の顎先まで来ていた。進む事も戻る事も、もう何も出来ない状態だった。頭がひどく痛かったが、それは彼らが浸からないように背中から頭上へと位置を変えたからだった。ただ茫然と立ち尽くし、倒れないように必死に踏ん張るしかなかった。辺り一面泥の海で、見えるものは何もなかった。ぬかるみを侮った罰を今、自分は受けているのだ、と塔子は思った。足を動かす事すらもう不可能な中、引っ繰り返らないように仁王立ちになりながら、辛うじてまだ口が泥に浸かっていないために、上を向いて呼吸をする事は出来た。逆に、泥に埋もれながらただ呼吸をしているだけの存在だった。何度か舟が通りかかったが、塔子の存在に気付く事はなかった。塔子もあえて声をかける事はなかった。頭に三人も人を乗せ、泥に埋もれてただ息をしているだけの滑稽極まる姿を誰にも見られたくなかったのだ。ある時、塔子に気付いた人が、舟を漕いで近寄って来た。あぁ、助けだ! やっと自分はこの困難から解放されるのだ、と塔子は思った。しかし、彼は塔子のそのまぬけな格好を見るや否や、腹を抱えてヒーヒーと笑い出し、こともあろうに俺も乗ってみよう、と言って舟から塔子の頭目掛けて飛び移って来た。塔子は飛び移られた反動で倒れそうになりながらも、なんとか持ちこたえた。後は誰が来る事もなく、ただ塔子は頭に四人の人を乗せて、泥の大海原の中、歯を食いしばって突っ立っているだけだった。これが夢であると、夢であってほしいと強く心に思いながら。

まるで母の時と同じように、義父もまた寝たきりになり、介護が必要となった。それでも、塔子は我が身を悲観するどころか、むしろそうなってしまった状況を喜んで受け入れた。そもそも舅が病気でも元気でも、塔子にはどちらでも良かったのだし、言葉は悪いが舅のこれまでの行いを見ていれば、こうなってしまったのは自業自得じゃないか、と思うのだった。あんなに恥も外聞もなく、いい歳をした自分の娘と息子を褒め称え、猫可愛がりし、天まで昇るのかと見ているこちら側がおののくほど我が子達を一所懸命に持ち上げ続けた義父が、これから我が子達にどう扱われるのだろうかという、純粋なる好奇心があった。結果、舅が我が子二人に大切に扱われても、無下にされても、塔子はどちらでも全く構わなかった。ただ、介護期間が延びていく中で、その関係性が今後どう変化していくのか、純粋にそれが知りたかった。自分もその渦中にいながらも、まるで興味深い映画を観賞しているような気分だった。義理の姉の要求がエスカレートしていき、塔子に降りかかる用事が増えようと、塔子は何の苦痛も感じなかった。むしろ、義姉のそういった態度や振る舞い、人間性を面白く感じていた。彼女が塔子に擦り付ければ擦り付けるほど、塔子は身をよじって笑いたいほど楽しい気持ちになるのだった。義理姉の行い一つで、これまで義父が培ってきたものの意味や価値が顕になっていくようで、塔子はフフッと思わず笑みを零すのだった。

頼まれた事を、確実にこなす。力を出し惜しみする事なく、全力で対処していく。ただ日々コツコツと真面目に生きているだけで、まるで広がっていた扇が一つずつパタ、パタ、と閉じていくように、塔子の人生最大の復讐は果たされていった。誰に何の危害も与える事なく、誰と争う事もなく、誰をも直接傷つける事なく、それは塔子の手を一切煩わす事なく、自動的に果たされていった。塔子が言われた事を素直にやればやるほど、義姉の苛立ちは増していった。塔子が甲斐甲斐しく舅の世話を焼けば焼くほど、舅の機嫌は悪くなっていった。彼の身内の用事をすればするほど、彼の肩身は狭くなっていった。それでも、誰も塔子を責める事は出来なかった。誰よりも時間を割いて介護をしていたのは塔子だったからである。決して出過ぎず、ただ言われた事を人形のように機械的に片付けていく。それだけで、周りの者は皆一様にイライラし始めるのだった。彼らには、その苛立ちがどこから来るものなのか、わかっていなかった。わかりようもなかった。塔子が嫌がる素振りを一切せず、素直に何でも応じれば応じるほど、自動的に彼らは息苦しさを感じ、己の惨めさを痛感し、当たるべき者が何もない事に腹立たしさを感じるのだった。決して満たされない空虚さに、言い様のない不快感に襲われるのだった。キツイ言葉を投げ掛けても、この申請、全部やっておいてね、と丸投げしてみても、何をしてみたところで、塔子が辛い素振りを見せない事に、彼らは薄気味の悪さを感じていたのだった。義父の要求が増えれば増えるほど、塔子の手を煩わす事になるのだが、それさえ回り回って結果、義姉と彼を追い詰める形となった。あれもしてもらっている。これもしてもらっている。塔子に借りだけが増えていくような圧迫感を、二人に与える形になったのだ。しかし、責める事は出来ない。してもらっている以上、何も言える立場ではない。塔子が彼らの要求をきいてやるほど、彼らの苦悩は深くなるばかりだった。塔子が真面目にやればやるほど、それは自動的に彼らの首を絞める結果となったのだった。

彼の姿は一気に老け、眉間に皺がいつも刻まれた状態になった。彼の姉と電話で大喧嘩する事が多くなっていった。彼が姉と揉める機会が増える度、徐々に塔子に対しての態度が変わっていった。塔子に感謝するようになったのだ。あれほど自分の事しか考えられなかった彼が、塔子を労い、塔子を父親の嫌がらせや姉の無責任さから庇うようになったのだった。塔子はそれを喜ぶでもなく、ただ当たり前のように受け流していた。お手伝いさん代わりの自分がいなくなれば、彼が困るからだろう、と冷淡に彼の感謝を受け流すのだった。ある日、彼がポツリと呟いた。
「三人でも、こんなに大変なのに、たった一人で、全部していたんだな。子供達もまだ、小さな頃に」
塔子はフッと微笑んだ。そうだね、と静かに相槌をうった。
「俺、何もわかってなかったんだな」
そうだね、と塔子が言うと、彼が笑った。
「今まで、ごめん。ごめんなさい」
彼が頭を下げるのを、塔子は暫くの間無機質な目で見つめた。そして、重い口を開いた。
「……詫びなんて、二枚舌でどうとでも言える。たとえ、今が真剣で誠実だったとしても、それはおそらく酔っているだけ。そんな状況に置かれた自分に酔っているだけ」
塔子の言葉にカッと顔を赤らめ、彼はギロリと塔子を睨んだ。塔子は平淡な表情でじっと前方を見つめ続けた。
「……今さら、俺が何を言ったところで、全て嘘にしか聞こえないか」
彼は肩を落とし、悲劇の主人公よろしく、我が身の不運を大袈裟に嘆き始めた。それだけじゃないよ、と塔子は指を折った。
「嘘。言い訳。言い繕い。逃げ。隠れ。丸投げ。卑怯。それがあなたの代名詞。自分に酔って、感動のあまり感謝の言葉を口にしたところで、それが一体何になる?」
「黙って行動で示せ。そういう事?」
さぁ? と塔子は首を傾げた。母親ではないのだから、ああしろ、こうしてみたら? などと指示を出す必要も責任も塔子にはなかった。彼はふうっと長い溜め息をつき、頭を抱え込んだ。
「じゃ、どうすればいいの? どうしてほしいの? 俺と姉貴の二人で全部親父の面倒を看ろって事か? そうなのか?」
「それは私が判断すべき事じゃないから。あなたが決める事じゃない? 自己都合だけの判断じゃなくて、自分以外の誰かに思いやりを持って判断すればいいんじゃない? でもそれは、私からすれば、儚い夢みたいなもの。叶っても叶わなくても、どうだっていい、ただの願望のようなものだから。夢が全て実現するなんて、甘い考えは持ってないから」
「お前は……お前は……心底冷たい女なんだな」
「そうかもしれない」
「お前は……お前は……俺を憎んでいるんだな」
「そうだったかもしれない」
「お前は……もう……俺を好きじゃないんだな」
「それは、お互い様かもしれない」
塔子がクスっと笑うと、彼もつられてぎこちなく微笑んだ。果たして、自分は彼を好きだった事が過去に一度でもあったのだろうか? それさえ危うかった。彼とて同じだろう。共に月日を重ねれば、そこに情は生まれる。歪んだ関係性でさえ、毎日の繰り返しでそれが日常化していく。歪みすら、当たり前の日常の風景と化すのだ。
「やり直せるかな? 俺達……」
彼が不安そうな表情で、塔子に問いかけた。塔子は暫くの間、黙ってただ前方を見つめていた。何もない白い壁をじっと眺めていた。
「……わからない。二人がこれからどう変わっていくのかなんて、私にはわからない」
正直な言葉だった。義父の件が終われば別れてしまうのか。それともいつか彼を愛せるようになるのか。逃げる事が正解であるモラルハラスメントにこれからも立ち向かっていくのか。彼がモラルハラスメント加害者ではなくなる日が本当に来るのか。たとえ何かの間違いで彼が人も羨むほどの道徳心のある人間に変身したところで、実際自分は彼のこれまでをなかった事にし、許せるのか。延々と続く単調で根気のいる日常という名の未来で。わからない。塔子には本当にわからなかった。
「正論だな」
彼がポツリと呟いた。
「ただ、感謝している事だけは、信じてほしい。本当にそう思っているから」
塔子は黙ったまま、虚空を眺めていた。彼の、どんな愛ある言葉も、塔子の耳には届かなかった。否、聞こえてはいるのだが、心を打つ事は決してなかった。
「……そうだよな。誰の事も信じられないようにしたの、俺だもんな」
彼はそう言って、静かに部屋を出て行った。塔子は無表情に白い壁をひたすら凝視し続けた。……確かに、それも、一理ある。だけど、それだけじゃない。奴隷が嫌なら、逃げればいいだけの話だ。逃げなかったのは、自分の意志だ。私は、自分の意志で、十数年、ずっとここにいたのだ。歪みを知りながらも、見ない振りをして、ここにいたのだ。モラルハラスメントの被害者は、本人には何の問題もないのにただターゲットにされている、とどこかで観るか読むかした事がある。そうなのだろう。他の人の場合は、きっとそうなのだろう。それが正解なのだろう。でも、自分は? 自分は果たして何の問題もない、まっさらな人間だったのだろうか。悪魔にロックオンされるだけの要因が、自分にはきっとあったはずだ。誰でもよかったわけじゃない。彼は無数にいる人間の中から、わざわざ獲物になるべき対象を選んでいたはずなのだ。加害者にしかわからない、被害者に刻印されている目には見えない印を素早く察知していたはずなのだ。原因因子あってこその、モラルハラスメントだったのだ。誰の言葉も信じられなくなったのは、決して彼だけの責任ではない。そもそも最初から自分にはそういう傾向があったはずなのだ。彼はそれを確固たる地位に後から参入して築いたに過ぎない。穴が空くほど壁の一点を見つめながら、塔子はそういった事をなんとなく感じていた。

義父が回復し、家に戻る事になった。義母が亡くなり、一人暮らしの身となった義父の今後をどうするか、彼と義姉は頭を悩ませていた。軽度ではあるが認知症を発症している事から、一人暮らしは不味いのではないかと、二人は考えていたのだ。私はもう嫁いだ身だから面倒を看る責任はない、と義姉は言った。でも、姉貴が再婚した時には相手側の舅も姑ももう既に他界していなかったじゃないか。それに姉貴には子供もいないんだから、親父を引き取っても何の不都合もないだろう、と彼は言った。義姉も彼も一歩も譲らず、お互いの主張を曲げなかった。繰り広げられる喜劇を、塔子は相変わらず他人事のようにただ面白く眺めるだけだった。どちらが勝っても負けても、どうでもよかった。たとえ塔子に火の粉が飛びかかろうと、それさえどうでもよかった。たった一人で何もかもをするのは大変だったが、人数が増えれば逆に揉める事も増えるのだなぁ、と塔子は興味深くその様子を観察するのだった。苦労が分散されるのではなく、100か0の戦争になる場合もあるのだ。自分は一人だったからわからなかったが、むしろ介護人の人数が増えれば増えるほど、何故自分だけが被らなければならない……と理不尽に感じてしまうのは仕方のない事なのかもしれない。全てを背負うか、今まで通りの気楽な人生か、と問われれば、それは誰だってわざわざ重い荷物を背負うのは嫌だろう。選択権すらなければ、それは自分の荷物だから他人様に背負わせるわけにはいかないと、当然のようにそれを肩に担ぐだろうに。自由か、雁字搦めか。選択権があればこその苦悩なのだろう。
話し合いは長く続いた。二人が声を荒げる場面もあった。塔子は二人の決断を、ただ黙って見守っていた。二人は時折塔子の意見を求める事もあったが、塔子は従います、とだけ口にして、自分の考えは何も言わないでいた。たとえ、塔子に全てが丸投げされようと、塔子は悔しいとも辛いとも思わなかったので、本当に何も発言する必要などなかったのだ。ただひたすら、彼らがどう決断するのか、それだけに興味があった。彼らは、自分の肉親を、今後どうするつもりなのか。決断は自己保身によって執行されるのか、それとも自己犠牲によって執行されるのか。保身の立場になった者は、犠牲の立場になった者に責められるのか。犠牲の立場になった者は、愛情によってその責任を果たそうとするのか。それとも愛などそもそも感じていないのか。そういった事柄だけが、塔子の関心を強く引くのだった。

数日後、義父は彼に連れられて、塔子の家へとやって来た。元居た家はそのままにしておき、追々売却するか義姉夫婦がそこに移るか考える事になった。軽い認知症とはいえ、退院後、体調はすっかり良くなった舅は、元気な70代の老人にしか見えなかった。朝はウォーキングに行き、お気に入りの喫茶店でモーニングを食べてから帰る。昼は塔子の作った食事を食べ、夜は皆で食事をした後、テレビなどを一緒に観賞し、早々に部屋に引き取って眠りにつく。義父は規則正しい生活を送った。風呂もトイレもまだ介助を必要としない。毎日汚れた服をちゃんと洗濯機に入れており、塔子がそれを洗って干す。舅は威圧的でもなければ遠慮がちでもなく、ごく自然に塔子の生活の一部に組み込まれた。夜の食事の時など、義父は決まって彼の幼かった頃の話を始めた。そして、我が孫達の素晴らしさについて滔々と語った。ご自慢の孫達を生み、育てた張本人は塔子であるから、舅が得意気に話せば話すほど可笑しさが込み上げた。塔子ちゃんは知らないと思うけどねぇ! から始まる義父の頓珍漢な孫自慢に、塔子は懐かしさを感じながら静かに微笑み、相槌を打った。そういえば、この人は、いつも、こんな風だった。塔子と目が合えば、彼や義姉や塔子の子供達の自慢話を、延々と繰り返さずにはいられない性分なのだ。とにかく、他人の塔子に、我が子や我が孫の自慢がしたくてしたくて堪らなくなってしまうのだ。昔は舅のそんなところが嫌で仕方がなかったが、毎日の事となると塔子も完全に慣れてしまった。塔子が海斗の宿題を見ていると、塔子ちゃんは知らないと思うけどねぇ! 廊下ですれ違えば、塔子ちゃんは知らないと思うけどねぇ! ……まるで発言前には必ず唱えなければならない呪文のように、それは日々繰り返された。ハイハイ、そうですね。ハイハイ、そうなんですか。食事の手を休める事なく、風呂掃除の手を休める事なく、沙耶の制服にアイロンを当てる手を休める事なく、塔子は適当に聞き流していた。腹立たしさもある一点を通り過ぎると、妙に可笑しさだけが込み上げてくるのだった。どうしよう、いつか本人の目の前で吹き出してしまったら。また真っ赤な顔をして鬼のように怒り狂うのだろうか。それはそれで、面白い見物かも。塔子はそれを想像して、また一人内緒でプッと笑うのだった。

今はまだ元気で暮らしているが、これから義父がどうなるか、まだわからない。案外あっけなく義母の時のように介護を必要とせずコロリといくかもしれないし、母の時のように何年も何年も寝たきりになって生きるのかもしれない。もし義父や義姉や彼がホームや病院を拒めば、塔子の負担はこれまで以上に大きくなるだろう。トイレ。お風呂。一人では出来なくなる日も来るだろう。失敗して粗相する日も来るかもしれない。あの強烈な匂いとの戦いが再び始まるかもしれない。身体は元気で認知症だけが進み、夜中に徘徊する心配も出てくるかもしれない。そうすれば、また乳飲み子がいたあの日々のように、眠れない夜が延々と続く事になるだろう。母の時と同じように、全く感謝されないどころか、悪態ばかりつかれ、罵られる日々がまたやって来るかもしれない。未来がどうなっているのかなんて、誰にもわかりはしない。
それでも、塔子はそこに不安や恐れを感じる事はなかった。渦中では永遠に続くように感じる苦悩も、永遠など決してない事がわかっていたからだ。いつか、それはある日を境に、まるで嘘のように終わってしまう。冗談みたいに、ある日を境に一変してしまう。誰もそれから逃れる事は出来ない。死は必然で、何も特別な事ではない。たとえこの世が矛盾だらけで、理解不能な苦しみや苛立ちに溢れていたとしても、死だけは確実であり、唯一平等とも言える存在だからだ。

モラルハラスメント加害者がまた一人家に増えた事で塔子の生活は一変したが、変化したのは生活だけで、目覚めたあの日から始まった塔子の精神は何も変わる事はなかった。誰が騒ごうと、誰が陥れようとしようと、誰が傷付けようとしようと、塔子の精神は微動だにしなかった。それはシンと静まり返り、青い炎が尽きることなく燃え盛り、不動として存在し続けた。それは善悪の判断はしてもジャッジする必要性はなく、全てを受け入れながらも、汚される心配のない聖域だった。被害者でもなければ加害者でもなかった。楽しさも苦しさも悲しさもありながら、ただそこにあり、青い炎を静かに揺らめかせていた。それが消滅してしまう事は決してなかった。

舅の未来はさておき、塔子は自分がまだ何かを忘れているような、まるで重大な何かを見落としているような、一番本腰を入れて向き合わなければならない何かに未だ気付いてはいないような、そんな漠然とした不可解な気持ちが自分の奥底にあるような気がしていた。それは日常の中でふとした時に顔をもたげるのだが、次の瞬間には雑多な事柄の中に埋もれていく。どの道を進んでもいつも赤信号だったのが、いつしかどの道を選んでも必ず青に変わるようになった日々の中で、それは不意に黄色を帯び、心の奥底で点滅を続けた。塔子はそれを訝しく思いながらも、その正体を見極める事が出来ずにいた。それは真剣に見据えようとすると、スルリとかわしたり、小動物のようにサッと草むらに身を隠したりした。これは、一体、何なのだろう。塔子は怪訝に思いながらも、それを深く追求する事なく、こなさなければならない細々とした用事に没頭するのだった。
ある日、塔子の携帯が鳴った。中学二年の娘の担任からだった。
「沙耶さんのお母さん。今すぐ学校へ来て下さい」
「えっ? 沙耶に何かありましたか?」
「沙耶さんが休み時間に友達と口論になったようでして。相手の子は大泣きしているし、沙耶さんはもういい! もういい! と叫びながら教室から飛び出して行って、今理科室に一人閉じこもって中から鍵をかけてしまったようなんです。誰も入れない状態なんです」
「……えっ……?」
「ガシャーン、ガシャーン、と音がするので、備品か窓か、何かを壊しているみたいです。かなり興奮しているようだから、何をするかわかりません。急いで下さい!」
「わかりました。今すぐ向かいます」
塔子は電話を切り、義父に出掛ける旨を話し、鞄に携帯を放り込んで、バイクに飛び乗った。これだ。これだったんだ。風を切りながら進むスピードの中で、塔子は心の引っ掛かりの正体をようやく知った。前方に見える黄色の信号を見据えながら、自分が見落としてきた、全く顧みる事のなかった何かを痛感した。自分は母の世話ばかりにかまけ、それが過ぎると今度は自分ばかりにかまけ、その後は義父の世話にかまけていた。そうやって暮らしている中で、気付けばいつの間にか沙耶は中学生になっていた。毎日、沙耶のご飯を作った。毎日、沙耶の洗濯をしてアイロンをかけた。毎週、沙耶の塾の送り迎えをした。週末は沙耶のクラブの大会のためにお弁当を作り、応援をした。幼い頃は夜泣きがひどく、何時間も寝ずに抱っこしていた。一生懸命に乳を飲むその様子を愛おしく眺めていた。歩き始めた頃に買った、初めての小さな小さな赤い靴は、今も大切に取ってある。あの子は公園が大好きで、喋り始める頃になると、コウエン、コウエン、ばかり口にした。いつも手を繋いで公園に行くのだが、帰りは疲れて抱っこをせがみ、海斗の入った大きなお腹で抱っこしていると、スヤスヤ気持ちよさそうに眠っていた。育てたのだ。親の助けもなく、彼の助けもなく、たった一人で育てたのだ。何が間違っていたのだろう。どこで間違えたのだろう。

信号が青に変わった。そこに愛情があったか。風がヘルメットの耳元でヒュウヒュウと泣いている。あったが、いつしかなくなっていたのか。左折のウインカーを出す。いつも後回しにしてきたのか。速度を落とし、身体を左に傾ける。体裁だけの、一方的な愛情だったのか。小高い丘の上に、白い校舎が見える。今わかる事は、自分がもう娘としての立場ではなく、親としての立場で人間関係を見直さなければならない時が来た事、それだけだ。それは長い戦いになるかもしれない。母と娘の愛故の戦争が、今度は立場が逆転して再び幕を開けるのだ。
泥に浸かっていたのは、親だったか。子供だったのか。それとも、両方それぞれが声に出さず密かに浸かっていたのかもしれない。泥に埋もれた母を、私は結局救い出す事が出来たのだろうか。泥に埋もれた我が子を、私は探し出して救う事が出来るのだろうか。いつの間にか、自分より遥かに背が高くなった我が子を。前方に、校門が聳え立つ。塔子はその扉の向こう側へ走った。


《 ひとしずく  完 》



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しろ☆うさです

いつも最後までお読み下さりありがとうございます

今回、「目覚め」シリーズで10話目、物語全体で121話目。おかげさまで最終話を迎えました。

3年10か月。読んで下さっていた方々に、深くお礼申し上げます。

今回のおはなしの完結部分ですが、3年10か月前からこういう風に終わると決めていました。

ちょっと違う感じに変えようかな~と迷う事もあったのですが、やはり最初のコンセプトのまま終わらせました。

これまでも何度か書きましたが、この小説はモーパッサンの「女の一生」の現代版、というイメージで書き始めました。育児、介護、モラルハラスメントを三本柱に、現代女性の人生の一部分を切り取って書いてきました。

「女の一生」のラストは新たな苦悩の種か、やっと訪れた希望の光なのか、読む側の捉え方によってどうとでも取れるラストなのですが、どちらだったとしても若い力の誕生によって未来が広がる感じに書かれています。

全く足元にも及びませんが、私もそのような先がまだまだ続くという形で(良い意味でも悪い意味でも)終わらせたいなーと思っていました。

次回からは、後書きのようなものをポツポツと書いていこうかなと思っています。

いつもお越し下さる方、時々覗きに来て下さる方、そして拍手やランキング等押して下さっている方、ありがとうございます。感謝しておりますm(__)m

しろ☆うさでした~~((⊂(^ω^)⊃))



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