FC2ブログ
<< vol.110 目覚め 2 :: main :: vol.108 根なし草 10 >>

vol.109 目覚め 1

生まれて初めて、本気で誰かを心底憎んだ。こんな感情は初めてだった。皮肉なもので、それを認識する事によって、塔子に新たな世界が広がった。これからの事ではなく、これまでの自分を深く振り返るようになったのだった。当たり前と受け入れてきた自分の日常が、如何にグロテスクに歪んでいたかを少しずつ知っていくような感覚であった。日々、渦中にいる時には決してわからなかった、自分を取り巻く状況が、まるで霧が晴れるように徐々にわかってきたのだ。

どれだけの長い期間、自分は自分を野ざらしにしてきた事か。どれだけの長い期間、自分は自分を助けようとはしなかったのか。自分で自分を見捨て、蔑ろにし、心ない人達に生贄として捧げてきた事か。それを当たり前の日常だと思い込み、献身こそ美徳とし、何をされても言われても、曖昧に笑って誤魔化し、本当は傷ついているのにそれにも気付かず、気付いた時にもなかった事にして目を逸らし、どす黒い感情に蓋をして隠し、自分の汚い感情を認めずにその痛みに震え、上手く立ち回れない自分を責め、責めて責めて責め続けた毎日だった。

自分が愚かであったと気付いた塔子だったが、そこから次のステップへと進むのは大変困難だった。頭では理解出来ても、心が追い付かないのだ。自己憐憫は甘美で、まるでぬかるみにはまったようになかなか抜け出せるものではなかった。被害者意識は執拗に塔子にまとわりつき、先へ進もうとする足にしがみついて放さないのだった。雁字搦めの状況に、今まで以上に苦しむ事になった。自己批判、未来への展望、自責の念、被害者意識、他者への怒り、真実を知った安堵感、深い悲しみ、自分への怒り……それらは目まぐるしくクルクルと数秒毎に入れ替わり、塔子を混乱の渦に陥れた。それでも、今までとは何かが違った。サンドバッグを止めようと決めた時点で、何かピカピカ光る新しいものが、塔子の心の中に生まれたのだ。それはまだか弱く、未熟で、今にも消えてしまいそうなものだったが、不安な夜には道しるべとなり、ほんの少しの勇気を与え、涙の後にも立ち上がる希望を与えるものだった。人によってはそれを自己と呼ぶのか、プライドと呼ぶのか、塔子にはわからなかったが、その新しく芽生えた何か、その何かを大切にしよう、灯を消さずに守っていこう、と思った。

母の住んでいた隣りの市にある市役所へと電話を掛けた。母が死んだ事を伝え、葬儀社にしてもらった以外にどういった手続きがまだ残っているのかを把握しなければならなかった。電話に出た市役所の女性は、ご愁傷様ですと言った後、丁寧に教えてくれた。この手続きは何階のどこそこ、その手続きは別館の何階、などと細かく説明し、いつまでに済ませればよいかや、必要な持ち物を教えてくれた。塔子は礼を言って電話を切った。今まで市役所の人にこんなに親切に事細かく説明を受けた事がなかったので、感動すら覚えた。それほど死は重いのか、尊いのか。母が生きていた時には受けなかった他人からの優しさを、塔子はじんわりと噛みしめた。それが死という大きな存在がなせる業なのか、偶然なのか、受け取り側の見方が変わったせいなのか、塔子にはまだよくわからなかった。その全てだったのかもしれない。

数日後、市役所に出向き、あちこち移動をして全ての手続きを終える事が出来た。どの窓口に行っても親切に対応してもらった。疲労は溜まったが、まだまだゆっくりもしていられない。母の住居をどうするかを考えなければならないからだ。これは気の重い作業だった。考えるだけで塔子の胃が圧迫された。母は片付けが苦手というレベルを遥かに超えていたからだ。一度か二度、母がまだ生きていて入院していた頃、あれとあれを取って来て、と鍵を渡された事がある。迷いに迷って辿り着いた母の住居の鍵を開け、中に入って探し物をする気が一気に失せた経験がある。塔子は汚い環境が生理的に無理なのだ。閉め切った部屋の空気はどんよりと重く、雑然と物が所狭しと置かれてあった。匂いも、見た目も、何もかもが無理だった。手に触れる事はおろか、その場で息をする事すら汚らわしく感じた。塔子は息を止め、ダッシュで探し物をし、本当に必要な物だけを掴み取り、後のどうでもいい物は探しもせずに飛び出したのだった。また、あの場所へ行かなければならないと思うだけで、塔子は心底嫌気がさした。最後のお務めだと割り切ろうにも、どうしても行きたくはなかった。それでもやらなければならない。塔子はうんざりしながら母の住んでいたマンションの管理会社へ連絡をした。母が亡くなった事、生きている限りはと家賃を支払い続けていたが、そういう訳でいついつまでに退去したいという旨を伝えた。管理会社の承諾を得ると、次はネットで遺品整理をしてくれる業者を探した。一人暮らしだった母のマンションは大した広さではなかったが、如何せん物が多かった。娘の沙耶が生まれて間もなく、孫の面倒をみたくない一心で遠くに引っ越して行った母であったが、結局そこに住んでいたのはほんの数年程度で、そこから長い入院生活が始まったのであるから、常識的に考えればこんなに物が溢れるほど溜まるはずがないのだ。テレビでやっているゴミ屋敷状態には一歩及ばないが、塔子から見れば似たようなものだった。自分で片付けが出来ないのならば、無駄金であろうと業者に頼るしか方法はなかった。何も生活費から出すわけでもなく、自分の持ち金で対応するのだから、誰に何を言われても痛くも痒くもないと腹をくくった。実際、身内以外の誰にも母の死を告げてはいなかったので、もったいないだの自分でやればなどと言う無責任な知人もいなかった。

数社ある業者からなんとかこれというところを選び、連絡をし、下見や見積もりを取ったりしている間に夏休みに入っていた。業者に依頼したとはいえ立ち合いや支払いやその後の管理会社とのやり取りもあるので、結局は一日仕事になる。小学三年の沙耶と小学一年の海斗の居場所を確保しなければならなくなったが、二人を預けるところがない事にふと思い当たった。ほんの数時間の留守番なら出来ても、いつ終わるか先の読めない作業のために何時間も留守番をさせるのは憚られた。別居中という事もあり、彼に連絡を取るのは避けた。夫婦間の事と父親としての責任とはまた別問題であるが、わざわざこちらから連絡を取りたい気は起らなかった。向こうの祖父母に預けるのは当然の事ながら論外であった。彼らと連絡を取る時がこれから先あるのならば、それは子供絡みではなく、きちんとした話し合いで真正面から向き合うつもりだった。逃げも隠れもしないし、逃げも隠れもさせない。しかしそうなると、近所に住むママ友しか預かってもらうところがないのが現実だった。彼女達には何も話してはいなかった。母が死んだ事も、そもそも長い介護生活をしていた事も、何も話してはいなかった。同じ街に住んでいるご近所さんであっても、彼女達は別世界に住んでいるような気がしていた。次元が全く違うのだ。彼女達には当たり前のように両親がいて、誰も二十代や三十代の若い身空で親の介護をしている者などおらず、未だに親にべったり頼り、甘えさせてもらっている、どこにでもいる普通の人達なのだ。あまりに塔子とはかけ離れている環境の人達に、どこまで話せばよいのかわからなかった。預かってもらうとなると、ある程度その理由も話さなければならないだろう。塔子としてはそこは避けたかった。まだ母が死んだ実感もないまま、彼と別居している事、義理の両親から受けた惨い仕打ち……それら一連の流れを自分でもまだ理解しきれていないのに、赤の他人にどう説明すればよいのかわかるはずもない。身内といえば弟くらいしか頼れる人はいないが、弟は他府県に住んでいるため、簡単に行き来出来るはずもない。
「あぁ、どうしたらいいのかな……」
塔子は考え込んだ。考えながら、これはこの先何度もぶつかるであろう障害である事に気付かされた。もしこのまま離婚となったら、自分には実家がない分、他の普通の人が離婚するよりも遥かに高い壁があるのだ。子供はいつ発熱するかわからないし、いつ怪我をするかわからない。その度に私は一人でそれら全てに対処しなればならないのだ。保健室まで迎えに行ってくれる親は二人ともいない。夫もいない。夫の両親もいない。仕事場を抜け出してお迎えに行き、病気の子供を病院に連れていく間もなく家に一人置き去りにして職場に戻る。小学校は他愛のない事でも万が一に備えて直ぐに連絡をくれる。その度に自分は一人しかいないのに、同時に会社にも学校にも病院にも存在しなければならなくなる。自分の事だけなら今すぐ別れても何も惜しくはない夫やその両親であっても、子供達の事を考えると、自分の都合や感情だけで決めてしまうのは危険だった。

その時不意に、子供達が夏休みに入る前に学校からもらってきていたプリントの事を思い出した。引き出しを開け、ファイルを取り出し、一枚一枚確認する。あった! これだ! そこには今年度から実験的に夏休み期間の子供の居場所を確保する取り組みが書かれていた。あぁ、なんてラッキーなんだろう! これに申し込めば、学校が子供達を預かってくれる! 塔子は受話器に手を伸ばし、何月何日にフルタイムで予約をしたいとお願いした。電話に出た先生は、水着や宿題や弁当や水筒の用意などを詳しく教えてくれた。塔子は礼を言って電話を切った。助かった! これで万事片が付く。

夏休みなのに学校になんて行きたくないよ、と渋る二人を説得して、なんとか学校に送りこんだ。後は母の住居の片付けに向かう。これさえ済めば、部屋を綺麗にしてもらって、管理会社に鍵を返したら、母絡みの用事は全て終わる。
そして、ここから本当の戦いが始まるのだ。私はまだ何も本質をクリアにしてはいない。死んだ人間の後片付けも大事だが、生きていて宙ぶらりんのまま放置されている人間関係を、修復しなければならない。または、縁をハサミで自らが責任を持って切らなければならない。塔子はまだ決めかねていた。彼に連絡を取って、話し合いを始めなければならない時期が、もうそこまで来ていた。



↑↓いつもありがとうございます
にほんブログ村 小説ブログ 現代小説へ
にほんブログ村


いつも最後までお読み下さり、ありがとうございます。

しろ☆うさです

今回から、新しいシリーズが始まりました。「目覚め」。なんて安直なネーミング……(笑)。まぁ、色々考えたんですけどね、これと言ってピンと来るものがなかったもんで。

まぁ、さっぱりしていていーんじゃない?と自分では思ってます……。

「目覚め」シリーズは一体いつまで続くのでしょうね。今までは下書きがあったのでだいたい把握出来ていたのですが、今回のシリーズからは下書きなしのぶっつけ本番で書いているので、どのくらい続くのか正直全くわかりません(笑)。でも、こういうのも面白い?かも。

毎回、新鮮な気持ちで書かせて頂きます←単に下書きが面倒なだけという(笑)。

いつもお越し下さる方、たまに覗きに来て下さる方、ランキングや拍手等を押して下さる方、いつも励みになっております。ありがとうございます

しろ☆うさでした~(⌒0⌒)/~~



↑↓いつもありがとうございます
にほんブログ村 家族ブログ DV・家庭内モラハラへ
にほんブログ村
スポンサーサイト

 |   |