vol.112 豚に真珠

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父方の祖母は塔子が二十二歳の頃に亡くなった。九十くらいまで生きた、大往生だった。塔子が高校生で、その祖母がまだ元気だった時、祖母が突然母に何かプレゼントがしたいと言い出した。
「いつも世話になっているからね。あんたに何も残してやるものがないし」
祖母はそう言い、塔子の父、つまり祖母にとっては自分の息子にいくらかのお金を手渡した。
「これで、二人でデパートへ行って何か買っておいで」
そんな事してもらわなくてもいいんですよ、と母は辞退したようだが、祖母は引き下がらなかった。
「いいんだよ。あんたには一番世話になっているんだから。そうだ、真珠がいい。真珠のネックレスを買っておいでよ。真珠ならこれから先使う事もあるだろうから」
頑として譲らない祖母の言葉に、母は大人しく従う事にした。年を取って、祖母はその当時は丸くなっていた。それまでの数々の確執が嘘のように、二人はうまく行っていた。祖母には数人の娘がいたが、彼女らは皆嫁に行き、子育てや嫁ぎ先の義理の親の世話や仕事などで忙しく、実家へ毎日顔を出す事はなくなっていた。母も弱ってしまった実母の面倒を看ていたが、姑の様子伺いも欠かさなかった。病院へ行きたいと言えば連れて行き、役所で何やら手続きがあると言われれば代わりにしてやり、何も用事がなくても週に何度かは必ず顔出しをしていた事から、徐々に祖母の気持ちが動いたらしい。亡くなる数年前には「あんたは実の娘達より、私によくしてくれた」と労いの言葉を口にするようになっていた。そんな時、その提案が来たのだった。

普段は東京へ単身赴任をしていた父が、帰って来ていた時だった。母はいそいそと準備をし、二人でデパートへ出掛けて行った。父と共に外出する機会もめっきり減っていたからか、母はどことなく嬉しそうな様子だった。いつもは着ない上等の服に袖を通している明るい笑顔の母を、塔子は手を振って見送った。
「お母さん、嬉しそうだったよね」
塔子が弟にそう言うと、弟もうんうん、と頷いた。
「久し振りだからじゃない? 二人で出掛けるのも」
「なんだか、デートみたいだよね」
塔子がクスクス笑うと、弟もフッと笑った。
「ウキウキしてんじゃない?」
二人は笑った後、塔子は近所に住む友達の家へ遊びに行き、弟は部活へと出掛けて行った。数時間後、一番最初に家へ戻ったのは塔子だった。家にはまだ誰も帰った様子がなく、塔子は鍵を開けて中へ入った。弟の部活は今日は練習試合だけだから、きっともうすぐ帰って来るはずだ。父と母は久し振りに二人でデパートへ行ったのだから、きっともっと遅くなるに違いない。お目当ての物を買い求めた後も、おそらくあれこれ見て回ったり、食事をしたりするだろう。塔子は一人きりの時間を満喫しようとした。何をしようか。溜まっている録画でも観る? 友達と貸し借りした本や雑誌や漫画を読む? それともちょっと昼寝でもしようか。ソファに座ってパラパラと雑誌をめくったところで、玄関のチャイムが鳴った。一体、誰だろう? インターフォンに映ったのは父と母の姿だった。えっ、もう帰って来たのか。塔子が鍵を外し、扉を開けると、そこには仏頂面の父と怒りで頬を真っ赤に染めた母の姿があった。
「もう帰って来たの? 早くない? 何かあった?」
二人は電車で行くと言って出掛けたので、この帰宅時間だと、デパートへ行って帰って来た往復の時間の方が長いくらいだった。父は塔子の問いに答えずにスッと中へ入って行った。母も何も言わず、ただ顔を真っ赤にしたまま靴を脱ぎ、玄関に立った。よく見ると涙を流していた。
「どうしたの? 何があったの?」
「……何もない」
「何もないって、泣いてるじゃない」
「……私、私が欲しいって言ったわけじゃない」
「えっ?」
「あなたの親が買ってあげるって言ったんじゃないっ! 私が買ってくれって何も頼んだわけじゃないっ!」
母は突然真っ赤な顔のまま玄関で叫んだ。塔子は面食らいながらも、まぁまぁ、と背中をさすった。
「取り合えず、中へ入ろう、ね?」
塔子は母の後ろに回り、リビングまで母の背中を押して行った。扉を開けるとそこには不貞腐れた顔の父が胡坐をかいて座っていた。
「何があったの? 出掛ける時はあんなに楽しそうだったのに。ねぇ、お父さん。喧嘩でもしたの?」
父は黙ったまま、ただ座っていた。塔子は父に訊くのを諦めて、母に向き直った。
「せっかく、お洒落して二人で出掛けたのに、何も喧嘩してこんなに早く帰って来なくても、仲良く楽しんで来たらいいのに……」
「……私も、そう思ってた。そのつもりだった」
母は父を見つめながらそう呟いた。
「……そのつもりだった。でも、この人は、この人は、私には真珠なんか必要ないって。贅沢だって、馬鹿にした」
「そういうつもりで言ったんじゃない」
それまで黙っていた父がぼそりと呟いた。
「でも、同じ意味じゃないっ! あなた、デパートで何を言ったか覚えてないの? 売り場の人に真珠を付けてもらった私を見てゲラゲラ笑って、豚に真珠だな、豚に真珠だなって言ったのよ!」
母はその場で大声を出して泣き崩れた。
「私が買ってくれって頼んだわけじゃない! あなたの、あなたの親がどうしてもって言ってくれたから行ったのに、どうして私がそんな事を言われなきゃならないの! どうしてデパートの売り場で、人が大勢いる中で、指さして笑わなければならないの? どうしてそんな恥をわざわざかかされなければならないの? 豚に真珠だなって、豚に真珠だなって、どうしてそんなひどい事を言われなければならないの!?」
塔子は何も言えず、ただ泣き続ける母の背を撫で続けた。高校生になったばかりの塔子は、うんざりした気持ちだった。それは父に対してもそうであったし、また母に対してもそうであった。子供の前でわざわざ揉め事を持ち出す母の子供っぽさに嫌気がさしたし、軽口のつもりであっただろう父の馬鹿みたいな振る舞いにも、心底嫌気がさした。どっちもどっちだ、と塔子は思っていた。

それから暫くして、それが原因では全くないが、とある事情により二人は離婚した。それから数年が過ぎて、あの当時を思い出してみると、あの時は見えなかったものが塔子には見えるようになっていた。結局は、積み重ねなのだ。それ一つは小さなたわいない事柄であっても、塵も積もれば山となるのだと。ほんの些細な日常の一コマに、その人の人となりが、人間性が滲み出るものなのだと。そこに、悪気は全くなかったのかもしれない。もしくは、受け取り側の方にも問題があったのかもしれない。それでも、情けない思いをわざわざさせる人間がこの世には存在するという事はわかった。状況を判断しない余計な一言を、さも得意気に吐く。本人はウイットに富んでいると思っている。皆はそれを聞いて、まぁ、オホホと笑ってやらなければならないタイプの人間がこの世には存在するという事がわかったのだ。父は、社会的地位があった。そして、社会的地位とその人の人間性というものは綺麗に比例するものではないという事がわかったのである。15の春の事だった。


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vol.111 目覚め 3

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訪れたどのサイトを見ても、答えはただひとつ、逃げろ、だった。相手は精神の吸血鬼であり、それは絶対に変わる事はない、と。社会的地位は高く、善良な市民であり、温厚な人柄である。表面上はなんの欠点も見当たらない、むしろ良い人間にすら思える。しかし、彼らは意識的にしろ、無意識にしろ、虎視眈々と獲物を狙っているのだ。その存在がない限り、彼らは生きられないのだ。自分の地位や立場を、獲物という対象物がない限り、自分の力で構築していく事が出来ないのだ。彼らは決して改心したりはしない。間違いに気付く事はない。そもそも、自らの生き方に疑問を抱いたりもしない。逆に、多大なる自信を持って人生を謳歌している。

責任を取らない。いや、取れない。いつも誰かが代わりに処理してくれるからだ。相手は大きな諦めを持って身代わりになっている事にも気付かない。してもらって当たり前。させている意識すらない。全て出来ていて当たり前。思い通りにいかないと、相手を詰る。彼らの中ではそれは出来ていて当たり前なのだから、当然の振る舞いなのだろう。責任はいつも誰かが肩代わりしてくれるもの。幼少期には親が、大人になってからは配偶者が。彼らはそういった思考であるから、いつも世の中はスムーズに回っている。自分で出した排泄物をそのままにして、誰かがきっと流してくれると信じている。いつもそうであるから。

自分に降りかかった火の粉は必死に払いのける。それが自業自得であっても、自分で処理する事は出来ないからだ。払いのけるだけでは飽き足らず、その火の粉をわざわざ獲物に振りかけようとする。これだけ自分は大変だったんだと相手にわからせようとする。それがどれだけ陳腐な振る舞いであるかは考えない。責任は転嫁するものだと固く信じているからである。被害者が100%それに応じても、まだ満足出来ない。100%では足りないからだ。彼らはいつも満腹な状態に慣れているが故、更なるもの、プラスアルファを求めてくる。彼らは満腹ではあるが、自分が満腹な状態である事には気付いていない。自分の排泄物を流してもらうだけでは満足しない。

彼らはそれに気付いてはいないが、ひどく厚かましい。相手の人情や優しさやモラルを利用する事に申し訳ないと思う心や、有難いと思う感謝の念を、そもそも最初から持ち合わせていない。卑怯だという意識もない。彼らの中では当たり前の事なのだ。100%の肩代わりでは飽き足らず、120%で応じてもらって当然なのだ。厚かましいとは思わない。それが当たり前なのだから。自分の幸せには貪欲だが、人は幸せだろうが不幸だろうがどうでもいい。むしろ、ターゲットは不幸でなくてはならない。彼らは被害者が悲しそうにしているのを見るのが大好きだ。それを繰り返す事で、自分という存在を確かめているところがある。獲物はいつも悲しい存在でなくてはならない。そうでないと、自らの存在価値を見出す事が出来ないのだ。被害者は、いつも自問自答をしている者でなくてはならない。自分に自信がなく、足りないと言われれば全てを差し出してくる馬鹿者でなくてはならない。自分の出した排泄物を、綺麗に拭いてもらってから流してもらわないと気が済まないのだ。

彼の事を真剣に考えるうちに、塔子はまた自分自身の事を振り返った。これらは一人では出来ない事であるのが段々とわかってきた。つまり、モラルハラスメントは一人では成しえないのだ。相手がいてこそ、ターゲットとしての獲物がいてこその、モラルハラスメントなのだ。きっと、獲物は誰でもよかったわけじゃない。獲物には獲物に選ばれた何かしらの理由があるはずなのだ。塔子はその後、自分がACである事を自覚した。イネイブラーであり、またプラケーターである事も徐々にわかってきた。

この状態から逃げるも逃げないも、全て自己判断だ。それは、大きな決断だ。誰に決められるものではなく、自己責任で判断するものだ。塔子は決めかねていた。そして、最後の望みを託した。彼に連絡をするのだ。そして、本音で話し合いをするのだ。彼に嫌われるかもしれないとか、こういう事を言ったりすれば彼が傷付くかもしれないとか、そういう事は一切なしに。激高した彼に殺されても構わない。何の本音も言えず我慢して、全てはなかった事にして生きていく方が何倍も辛い。話し合ってわかる相手ではない、と数多くのサイトに書かれてあったが、それを踏まえても一度彼と真剣に向き合ってみよう。今まで隠して来た本音を、全てぶちまけてみようと決めた。もしかしたら、彼は意図的にそういう行為をしていたわけではなかったかもしれない。自分が環境によってACになってしまっていたように、彼もまた環境によって無意識に行っていたかもしれないからだ。

久し振りに会った彼は、少しやつれて見えた。やつれて見えるように意識しているのかもしれない。彼は自己憐憫を漂わせる事を恥だと思わないタイプの人間であるから、わざとそういったニュアンスを漂わせているのかもしれなかった。遠回しな嫌がらせだ。俺はお前に追い出されてから、こんなにやつれてしまったんだぞ、と言葉を発さなくとも匂わせているのだ。今までの塔子ならそのオーラにまんまと引っ掛かり、相手をよい気分にさせよう、喜ばせようと必死になるところだったが、もうそういう気持ちは起らなかった。
「元気?」
塔子が問いかけると、彼は力なく微笑んだ。なんの不足もない満タンな人生であるのに、相変わらず自分は不幸である、被害者であるという雰囲気を辺り一面に撒き散らしたひ弱な笑顔だった。塔子は彼のそういった態度に目もくれずに用件を話し始めた。
「離婚するか、しないか。決めたいの。別居してしばらく経つし、そういう事考える時間はあったでしょ」
本題をズバッと切り出すと、彼はたじろいだ。落ち着きなくコーヒーカップの淵を触り始めた。塔子は彼のそういったしぐさを、何の感動もなくじっと見つめた。
「……仕事が、忙しかったからなぁ、毎日」
「うん。私も毎日忙しかったよ」
あなたはそれひとつだけして実家に帰って悠々としていればよかったけど、私は子育ても親の死後の後処理も、その他諸々全部自分一人で黙々としていましたよ、実家という味方もなく、何のギャラリーも称賛も必要としませんでしたよ、と塔子が淡々と言うと、彼は不思議そうな顔をした。内容が理解出来ていない表情だった。
「実家には帰らなかったんだ。なんとなく。だからずっと一人でいたよ。大変だった」
「あ、そう。別にあなたが大変だった話を聞く気はないから。そういう事を聞くために会ってるわけじゃないから。冷たいようだけど、私はもうこの先二度とあなたの苦労話とやらを聞く気はないの。私がそういう話題をすると、あなたは一度もまともに聞いてくれた事はなかったよね。受け止める器はないのに、自分は受け止めてほしいなんて、小学生レベルだよね。いい歳した大人が厚かましいにも程があると思う」
「……っ」
彼はハッとした表情を浮かべ、一度塔子を凝視した後、力なく項垂れた。
「と、思うようになったの、最近。私はね。あなたがどう思おうとあなたの意見だからそれはそれでいいけど。あなたの意見は意見で尊重するけど、同調しているわけじゃない。だからもう、私はあなたの言いなりにはならないし、あなたの尻拭いをする気もないし、自分の心を殺してまでもあなたを幸せにするつもりはないの。わかる?」
「……それって、離婚したいって事だろ?」
「そうは言ってない」
「そういう意味だろうっ! 同じ意味だろうっ!」
「あなたは? 私じゃなくて、あなたは? どう思うの?」
「……俺は……俺は……」
彼は頭を抱え込んだ。コーヒーカップがガチャンと音を立てた。決められないのだ。彼は決められないのだ。何も離婚に限らず、これまでの人生、何かを自分一人で決断した事が一度もないのだ。それをすると、誰かに責任を擦り付けられなくなる事を知っていたからだ。彼は怖いのだ。決断をするよりも、その後誰のせいにも出来ない状況に陥る事が怖いのだ。
「……俺は、決める資格がない、と思う……」
「へぇ。どうしてそう思うの?」
「……出て行けって言ったのはお前だから。きっかけを作ったのはお前だから」
「そう、私だよね。じゃ、なんでそう言われたか、わかる?」
「……わからない……」
「……本気でそれ、言ってる?」
「……うん」
「あのさ、こういう事はあまり言いたくないんだけど、罪の意識がなければ何をしてもいいかっていうのは違うと思うよ。人を殺しておいて、そういうつもりじゃなかったんだーって言っても、殺した事実は変わらないよね。あなたは自覚がなかったとしても、だからといって何をしてもいい事にはならないの。自覚があったにしろ、無意識だったにしろ、人の心を殺してしまった事実は変わらない」
「……うん」
「……多分、一度にバーッと言われても、このおよそ10年間分の思いはきっと伝わらないと思うし、私も抜け落ちる事がいっぱいあると思うから」
塔子は手元の鞄から封筒を出した。
「これ。今までの事、思い出せる限り、全部書いてきた。これを読んでもらえば、私がどう思っていたかがわかると思う。読むも読まないもあなたの自由です。これを読んで離婚したいなって思うのも、したくないなって思うのも、あなたの自由です。私の意見は読んでもらってあなたの意見を聞くまで保留にしたいです。ズルいかもしれないけど、見極めたいところがあるからです。何年の何月っていう細かい描写は、いざ離婚になった時にこれをこのまま弁護士に証拠として提出するためです。それはコピーで、原本は私が持っています。今日はわざわざ来てくれてありがとうございました」
塔子は立ち上がって軽く一礼をした。そして振り返りもせずにその場を立ち去った。彼をまだ愛しているのか、もう愛していないのか。そういう次元はもうすでに終わっていた。彼が一人前の男としてここで成長するのか、否か。彼は根っからのモラハラ加害者なのか、否か。もう相手に振り回されず、冷静に判断する時が来たのだ。

バカな事をしているのは百も承知だ。聡明な人は、逃げるだろう。逃げるが勝ちだ。逃げるのは、どちらかに偏っていたものを真っすぐに戻す事だ。私のしている事は、ただ逆の方向に強引に曲げているだけに過ぎない。それでも。それでも私はこの道を選んだ。まだ、あんな話の通じない男にしがみついている自分に笑った。一縷の望みに賭けている自分を笑った。


「目覚め」1~2


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vol.110 目覚め 2

母が亡くなってから、一度も泣かなかった。長い長い介護生活は、いつもすぐ側に死の匂いを感じていた。激流に飲まれているような忙しさの中でも、それは常にぴったりと塔子に寄り添い、片時も離れる事はなかった。突然の別れには人は現実を受け入れられないかもしれないが、徐々に弱っていく様を見ている間に、大抵の予想や覚悟はつく。ただ、60そこそこで亡くなったのは、あまりに早いとは感じた。それでもそれは仕方がないと割りきる事が出来た。涙はひとしずくすら出なかった。

それでも、塔子は夜になって子供達が寝静まると、声を殺して泣き続けた。強い希望の光は確かに塔子を明るく照らしている事を知っていたが、気持ちを切り替えるのはなかなか難しかった。母を想っての涙は一滴も出ないのに、これからの未来の事を思い煩うと、自然と涙が流れるのだ。今まで自分が受けてきた彼からの冷たい仕打ちを思うと、体から熱が溢れるほどの怒りを感じ、涙が止まらなくなるのだった。人を許す事は美徳だと信じ、疑いもしなかった自分の愚かさを責め、滝のように涙が頬を伝うのだ。普段どれだけ軽く扱われても、いざという時には義理の娘なのだから、きっと彼の両親は自分を慰め、心に寄り添ってくれるはずだと信じきっていた自分を責めるのだ。何故、母が死んだその瞬間から、自分は独りぼっちになってしまったのだろう。何故、一番寄り添って欲しい相手に放置され、その親達からも攻められなければならなくなったのだろう。暗闇の中、息を潜め、塔子は深く深く考え込んだ。昼間は忙しく、現実的な事柄への対処に追われていたが、夜になるとそうやって自分自身や取り巻く環境について考える時間が多くなった。

涙の中でも、今までの自分はサンドバッグだったのだ、これから自分はそれを止め変わるのだ、と強い気持ちで決めていた。

母の家の明け渡しはなかなか思うようには進まなかった。業者側の下見に一日取られ、片付けも思うようにサクサクとは進まなかった。夏の盛りという事もあり、自分も含め来てくれた業者さん達も、皆熱中症にならないように気をつけながらの作業だった。なんとか片付き、管理会社に鍵を返した。終わった。これで母絡みの用事は全て片付けたのだ。

母の町からの帰り道、母、その娘、その子供と親子三代で歩いている仲の良さそうな家族とすれ違った。瞬間、心に鉛の玉が重くのしかかったような苦しい気分になり、塔子は自分でもビックリした。母が生きていて寝たきりだった頃は、そういった親子連れを見掛ける度に辛く、我が身を呪っていたが、今やもう母は死んでいないのに、大変だった育児と介護の両立にもう悩まされる事もなくなったのに、まだ自分はこんなにもあの光輝く存在を見るのも辛いのだ、恐ろしいのだ、と思い知った。街を歩けば、いくらでもいるその存在に、一体自分はいつ慣れる事が出来るのだろう。慣れる日なんて来るのだろうか。

母の片付けを全て終えると、塔子は携帯を持っては置き、また持っては置いて、を暫く繰り返す日々を送った。彼からは結局あれから何も連絡がない。いつものように、こちらから働き掛けなけば、今回の別居騒動も何の進展もない事は嫌というほどわかっていた。いつもの事だ。待っていても、彼は何も動かないのだ。塔子は何度も彼に連絡をしようとしたが、やはり出来なくて携帯を放り出してしまうのだった。このままではダメだという事は痛いくらいにわかっていたが、母が死んでからの怒濤の忙しさからやっと解放されたのに、わざわざまた長く苦しい道のりに自ら踏み出して行く事に、どうしても気が乗らないのだった。あぁ、こんな辛い時に帰れる実家があったなら。あぁ、こんな辛い時に分かち合える伴侶がいたなら。でも現実はどちらも自分にはなく、自分で頑張って前に進んでいくしかないのだ。自分は両方持っていない空っぽの存在なのだから、その厳しい現実を受け入れ、自分で自分を幸せにしてあげるしか道はないのだ。

その頃から、自分を振り替えりつつ、彼の事も深く考えるようになった。今まで彼が塔子にしてきた行いの数々を、じっくりと思い出し、その意味について考えるようになった。ある日、世の中には自分と同じような境遇にある人はいるのだろうか、とふと思った。自分と同じような境遇。親がいなくて帰る実家がなく子育てをしている人。配偶者やその親から蔑ろにされている人。まだ手のかかる小さい子供の育児をしている若い世代なのに親の介護も同時にしている人。それら全部を背負い込んでしまった自分とぴったり当てはまる人はいないかもしれない。でも、どれか一つでも当てはまる人なら、この広い世の中たくさんいるに違いない。

夜になると泣く回数は減り、代わりにネットで色んな知りたい事を調べる日々が続いた。どうして自分はいつも彼にあんな態度を取られなければならなかったのか。まず知りたいのはそこだった。検索する言葉を何度も変え、塔子は色んなサイトを覗いた。そしていつも黒い霧のように感じていたその正体が段々わかってきた。モラルハラスメント。彼は自分にモラルハラスメントを行っていたのだ。

後ろから彼は両手で私の目を覆っていた。おそらく、出会った時から、ずっとそうだったのだ。気付かなかっただけで。自分だけが気付いていなかっただけで。今、自分は事実を知った。彼に目を塞がれて生きていた事を知ってしまった。事実を知ってしまったからには、その指をゆっくりと剥がし、勇気を持って後ろを振り返ってみよう。一体、本当の彼はどんな顔をしているのだろうか。



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vol.109 目覚め 1

生まれて初めて、本気で誰かを心底憎んだ。こんな感情は初めてだった。皮肉なもので、それを認識する事によって、塔子に新たな世界が広がった。これからの事ではなく、これまでの自分を深く振り返るようになったのだった。当たり前と受け入れてきた自分の日常が、如何にグロテスクに歪んでいたかを少しずつ知っていくような感覚であった。日々、渦中にいる時には決してわからなかった、自分を取り巻く状況が、まるで霧が晴れるように徐々にわかってきたのだ。

どれだけの長い期間、自分は自分を野ざらしにしてきた事か。どれだけの長い期間、自分は自分を助けようとはしなかったのか。自分で自分を見捨て、蔑ろにし、心ない人達に生贄として捧げてきた事か。それを当たり前の日常だと思い込み、献身こそ美徳とし、何をされても言われても、曖昧に笑って誤魔化し、本当は傷ついているのにそれにも気付かず、気付いた時にもなかった事にして目を逸らし、どす黒い感情に蓋をして隠し、自分の汚い感情を認めずにその痛みに震え、上手く立ち回れない自分を責め、責めて責めて責め続けた毎日だった。

自分が愚かであったと気付いた塔子だったが、そこから次のステップへと進むのは大変困難だった。頭では理解出来ても、心が追い付かないのだ。自己憐憫は甘美で、まるでぬかるみにはまったようになかなか抜け出せるものではなかった。被害者意識は執拗に塔子にまとわりつき、先へ進もうとする足にしがみついて放さないのだった。雁字搦めの状況に、今まで以上に苦しむ事になった。自己批判、未来への展望、自責の念、被害者意識、他者への怒り、真実を知った安堵感、深い悲しみ、自分への怒り……それらは目まぐるしくクルクルと数秒毎に入れ替わり、塔子を混乱の渦に陥れた。それでも、今までとは何かが違った。サンドバッグを止めようと決めた時点で、何かピカピカ光る新しいものが、塔子の心の中に生まれたのだ。それはまだか弱く、未熟で、今にも消えてしまいそうなものだったが、不安な夜には道しるべとなり、ほんの少しの勇気を与え、涙の後にも立ち上がる希望を与えるものだった。人によってはそれを自己と呼ぶのか、プライドと呼ぶのか、塔子にはわからなかったが、その新しく芽生えた何か、その何かを大切にしよう、灯を消さずに守っていこう、と思った。

母の住んでいた隣りの市にある市役所へと電話を掛けた。母が死んだ事を伝え、葬儀社にしてもらった以外にどういった手続きがまだ残っているのかを把握しなければならなかった。電話に出た市役所の女性は、ご愁傷様ですと言った後、丁寧に教えてくれた。この手続きは何階のどこそこ、その手続きは別館の何階、などと細かく説明し、いつまでに済ませればよいかや、必要な持ち物を教えてくれた。塔子は礼を言って電話を切った。今まで市役所の人にこんなに親切に事細かく説明を受けた事がなかったので、感動すら覚えた。それほど死は重いのか、尊いのか。母が生きていた時には受けなかった他人からの優しさを、塔子はじんわりと噛みしめた。それが死という大きな存在がなせる業なのか、偶然なのか、受け取り側の見方が変わったせいなのか、塔子にはまだよくわからなかった。その全てだったのかもしれない。

数日後、市役所に出向き、あちこち移動をして全ての手続きを終える事が出来た。どの窓口に行っても親切に対応してもらった。疲労は溜まったが、まだまだゆっくりもしていられない。母の住居をどうするかを考えなければならないからだ。これは気の重い作業だった。考えるだけで塔子の胃が圧迫された。母は片付けが苦手というレベルを遥かに超えていたからだ。一度か二度、母がまだ生きていて入院していた頃、あれとあれを取って来て、と鍵を渡された事がある。迷いに迷って辿り着いた母の住居の鍵を開け、中に入って探し物をする気が一気に失せた経験がある。塔子は汚い環境が生理的に無理なのだ。閉め切った部屋の空気はどんよりと重く、雑然と物が所狭しと置かれてあった。匂いも、見た目も、何もかもが無理だった。手に触れる事はおろか、その場で息をする事すら汚らわしく感じた。塔子は息を止め、ダッシュで探し物をし、本当に必要な物だけを掴み取り、後のどうでもいい物は探しもせずに飛び出したのだった。また、あの場所へ行かなければならないと思うだけで、塔子は心底嫌気がさした。最後のお務めだと割り切ろうにも、どうしても行きたくはなかった。それでもやらなければならない。塔子はうんざりしながら母の住んでいたマンションの管理会社へ連絡をした。母が亡くなった事、生きている限りはと家賃を支払い続けていたが、そういう訳でいついつまでに退去したいという旨を伝えた。管理会社の承諾を得ると、次はネットで遺品整理をしてくれる業者を探した。一人暮らしだった母のマンションは大した広さではなかったが、如何せん物が多かった。娘の沙耶が生まれて間もなく、孫の面倒をみたくない一心で遠くに引っ越して行った母であったが、結局そこに住んでいたのはほんの数年程度で、そこから長い入院生活が始まったのであるから、常識的に考えればこんなに物が溢れるほど溜まるはずがないのだ。テレビでやっているゴミ屋敷状態には一歩及ばないが、塔子から見れば似たようなものだった。自分で片付けが出来ないのならば、無駄金であろうと業者に頼るしか方法はなかった。何も生活費から出すわけでもなく、自分の持ち金で対応するのだから、誰に何を言われても痛くも痒くもないと腹をくくった。実際、身内以外の誰にも母の死を告げてはいなかったので、もったいないだの自分でやればなどと言う無責任な知人もいなかった。

数社ある業者からなんとかこれというところを選び、連絡をし、下見や見積もりを取ったりしている間に夏休みに入っていた。業者に依頼したとはいえ立ち合いや支払いやその後の管理会社とのやり取りもあるので、結局は一日仕事になる。小学三年の沙耶と小学一年の海斗の居場所を確保しなければならなくなったが、二人を預けるところがない事にふと思い当たった。ほんの数時間の留守番なら出来ても、いつ終わるか先の読めない作業のために何時間も留守番をさせるのは憚られた。別居中という事もあり、彼に連絡を取るのは避けた。夫婦間の事と父親としての責任とはまた別問題であるが、わざわざこちらから連絡を取りたい気は起らなかった。向こうの祖父母に預けるのは当然の事ながら論外であった。彼らと連絡を取る時がこれから先あるのならば、それは子供絡みではなく、きちんとした話し合いで真正面から向き合うつもりだった。逃げも隠れもしないし、逃げも隠れもさせない。しかしそうなると、近所に住むママ友しか預かってもらうところがないのが現実だった。彼女達には何も話してはいなかった。母が死んだ事も、そもそも長い介護生活をしていた事も、何も話してはいなかった。同じ街に住んでいるご近所さんであっても、彼女達は別世界に住んでいるような気がしていた。次元が全く違うのだ。彼女達には当たり前のように両親がいて、誰も二十代や三十代の若い身空で親の介護をしている者などおらず、未だに親にべったり頼り、甘えさせてもらっている、どこにでもいる普通の人達なのだ。あまりに塔子とはかけ離れている環境の人達に、どこまで話せばよいのかわからなかった。預かってもらうとなると、ある程度その理由も話さなければならないだろう。塔子としてはそこは避けたかった。まだ母が死んだ実感もないまま、彼と別居している事、義理の両親から受けた惨い仕打ち……それら一連の流れを自分でもまだ理解しきれていないのに、赤の他人にどう説明すればよいのかわかるはずもない。身内といえば弟くらいしか頼れる人はいないが、弟は他府県に住んでいるため、簡単に行き来出来るはずもない。
「あぁ、どうしたらいいのかな……」
塔子は考え込んだ。考えながら、これはこの先何度もぶつかるであろう障害である事に気付かされた。もしこのまま離婚となったら、自分には実家がない分、他の普通の人が離婚するよりも遥かに高い壁があるのだ。子供はいつ発熱するかわからないし、いつ怪我をするかわからない。その度に私は一人でそれら全てに対処しなればならないのだ。保健室まで迎えに行ってくれる親は二人ともいない。夫もいない。夫の両親もいない。仕事場を抜け出してお迎えに行き、病気の子供を病院に連れていく間もなく家に一人置き去りにして職場に戻る。小学校は他愛のない事でも万が一に備えて直ぐに連絡をくれる。その度に自分は一人しかいないのに、同時に会社にも学校にも病院にも存在しなければならなくなる。自分の事だけなら今すぐ別れても何も惜しくはない夫やその両親であっても、子供達の事を考えると、自分の都合や感情だけで決めてしまうのは危険だった。

その時不意に、子供達が夏休みに入る前に学校からもらってきていたプリントの事を思い出した。引き出しを開け、ファイルを取り出し、一枚一枚確認する。あった! これだ! そこには今年度から実験的に夏休み期間の子供の居場所を確保する取り組みが書かれていた。あぁ、なんてラッキーなんだろう! これに申し込めば、学校が子供達を預かってくれる! 塔子は受話器に手を伸ばし、何月何日にフルタイムで予約をしたいとお願いした。電話に出た先生は、水着や宿題や弁当や水筒の用意などを詳しく教えてくれた。塔子は礼を言って電話を切った。助かった! これで万事片が付く。

夏休みなのに学校になんて行きたくないよ、と渋る二人を説得して、なんとか学校に送りこんだ。後は母の住居の片付けに向かう。これさえ済めば、部屋を綺麗にしてもらって、管理会社に鍵を返したら、母絡みの用事は全て終わる。
そして、ここから本当の戦いが始まるのだ。私はまだ何も本質をクリアにしてはいない。死んだ人間の後片付けも大事だが、生きていて宙ぶらりんのまま放置されている人間関係を、修復しなければならない。または、縁をハサミで自らが責任を持って切らなければならない。塔子はまだ決めかねていた。彼に連絡を取って、話し合いを始めなければならない時期が、もうそこまで来ていた。



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vol.108 根なし草 10

今、自分に渦巻いているこの感情に、塔子は名前をつける事すら出来ずにいた。辛い。苦しい。痛い。塔子を取り囲んでいるこのどす黒いざらざらとした粒子の粗い煙のようなもの、これは一体何なのか。塔子にはそれが何であるのかわからなかった。あまりにも漠然としていて、その感情に名がある事すら気付かずにいた。子供達の手前、何事もなかったかのように日常は振る舞った。今日は習い事の送り迎え。明日の一、二時間目は水泳の授業があるからプールの用意。こなすべき日常の細々とした事は、塔子が生き生きと楽しく生きていようがいまいが、何の変わりはなく平等に訪れるのだ。

彼が出て行ってから一週間ほどした頃、子供達がおずおずとおじいちゃん、おばあちゃんの家に遊びに行ってもかまわないか、と言い出した。瞬間、塔子の胸は矢を刺されたかのようにグサッと鋭い痛みが走った。嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 子供達は父親に会いたがっている。そして、祖父と祖母に会いたがっている。塔子は激しく動揺した。吐いてしまいそうなほどの不快感が体中を貫いた。おぞましさのあまり、塔子は目を閉じた。平衡感覚が失われるほどの目眩が襲う。それでも、塔子はどうにか笑顔を作り、いいよ。行っておいで、と囁いた。子供達には、何の罪もない。何の罪もないのだ。ただ、純粋に父親やおじいちゃん、おばあちゃんに会いたいと思っているのだろう。子供達が行ってしまうと、塔子の心はぽっかりと穴が空いたような、虚ろな気分になった。大丈夫だ。二人はすぐに帰ってくるだろう。そうは思っても、心は不安でざわついた。やはり、行ってはだめだと言えばよかったのか。違う違う、それはエゴだ。私の勝手な醜いエゴを、子供達にぶつけてはいけないのだ。子供達を信じて待つのだ。大丈夫。これ以上の不幸が襲いかかるはずはないのだから。

夜になっても、子供達は帰っては来なかった。程なく電話が鳴り、今日はこのまま泊まると言っている、と彼から連絡が入った。塔子は信頼を裏切られたような、がっかりした気持ちを味わいながら、床についた。私は誰に落胆しているのだろう。子供達はまだ幼く、こういう結果になってしまった理由すらわかってはいない。子供達……否、違う。きっと自分は彼に、彼に落胆しているのだ。心底、がっかりしているのだ。用件だけを言って電話を切ってしまった、彼に落胆をしているのだ。何故、こんなあやふやな状態のまま、全てを放り出しておけるのだろう? 何故、こちらからきっかけを作らない事には、彼は改善のため自ら動こうとはしないのか? 何故、私は母が亡くなって数日しか経っていないのにもかかわらず、なんの慰めも励ましもなく、一人侘しく放置されなければならないのか。

翌日、子供達は帰って来た。出来るだけ明るくいようと、お帰り、とぎこちない笑顔を作って出迎えた。ただいま、と呟いた子供達の顔は、どこかひきつったような、妙な表情だった。まず、塔子と目を合わせようとはしない。一体、どうしたというのか。向こうの家で、一体何があったというのか。準備していた夕食を三人で食べている時も、漂うのは違和感しかなかった。晩御飯を食べ終え、皿を洗い終えた頃、とうとう何も話さない子供達に向かって、塔子は出来るだけ明るく何気無く質問してみた。
「ねぇ。おばあちゃんのお家で何かあったの?」
「えっ……ううん。何もないよ」
小学三年生になった娘の紗耶が、ソワソワしながら、有らぬ方を向いた。
「でも、あなた達、様子が変だよ。絶対何かあったんだと思うなぁ」
「だって、お母さん……言えないよ、お母さんには……」
「う~ん。心に溜めてる方が、ツラくない? 言っちゃえば楽になるかもよ」
「うん……でも、お母さん、嫌がるかなぁって思うから……」
「お母さんの事を気遣ってくれて言えないなら、そんな事は気にしなくていいんだよ。お母さんは大丈夫だから」
「ホント? じゃあ言っちゃうけどね……お母さん、お母さんって、悪い人間なの?」
「はっ?」
「だって、おじいちゃんが怒ってたよ、お母さんの事。あの子は悪い人間だって。うちの可愛い息子を追い出した、とっても悪い人間だって」
横でぼうっと成り行きを見つめていた小学一年生の息子の海斗が、突然そうそう!と叫んだ。
「お母さんは悪い人間だって、おじいちゃんが言ってた! 何度もそう言って怒ってた!」
二人はじぃっと塔子の顔を見つめた。
「お母さん、悪い人間だったんだね。知らなかったよ」
「ずっと、優しくていいお母さんだと思ってたのに。本当は違うんだね……」
「おばあちゃんも、怒ってたよ、お母さんの事。こっちが買ってやった家に勝手に住んでる悪い人間だって」
「そうそう! おばあちゃん、スッゴク怒ってたよ。あのね、お魚を焼きながらお父さんとおじいちゃんとおばあちゃんの三人で怒ってたらね、お魚が真っ黒に焦げちゃったの。おばあちゃん、お魚焼いてる事、忘れちゃうくらい怒ってたから」
塔子の目の前から、一切の色彩が消えていく。ギィギィと心が捻られていく音だけが聞こえる。これ以上の、これ以上の不幸はもうないと思っていた。甘かった。本当に甘かった。まだまだ、まだまだ、悪夢は続くのだ。これまでよりもヒリヒリと辛く、全身を赤剥けにされたようだ。否、違う。もう、すでに私は赤剥けの状態だったのだ。それを彼と義理の両親は、事もあろうに寄ってたかって皮膚のない体に更に追い討ちをかけるかのごとく、情け容赦なく鞭打ったのだ。

あぁ。子供達はまだこんなにも幼い。何が本当で何が正義なのかも判断がつかない。当たり前のように慈しみ、当たり前のように我が血を授乳によって分け与え、何の見返りも持たなかったとはいえ、こんなにもあっけなく日々の積み重ねや努力や揺るぎない愛情さえも木っ端微塵に潰されてしまうとは。何の確証もない発言に、一方通行の偏った意見に、いとも容易く親子の絆さえも引きちぎられてしまうとは。悔しさのあまり、ブルブルと震えながら、塔子はニッコリと微笑んでみせた。
「大丈夫だよ。あなた達のお母さんは、悪い人間?とかじゃないから。何を言ってるんだろうね、子供の前で。きっと、何か勘違いしちゃったんじゃないかなぁ~」
「えっ? そうなの?」
「お父さん達が間違ってるの?」
「う~ん。どっちが間違ってる、間違ってないとかの問題じゃなくて……。お母さんはよくわからないけど、きっとどっちも間違ってないんじゃないかなぁ~」
「ふ~ん。そっか」
「なぁ~んだ。そうなんだぁ」
「あなたのお母さんは悪い人間って言われたから、なんだか帰りづらかったんだよね」
「ボクも! 帰るのがホントはスゴく嫌な感じだった! だって、悪い人がいる家には帰りたくないもん」
「誤解されたら困るから言っておくけど、お母さん、別にあの人達のお金を勝手に取ってここに住んでいる訳じゃないからね。その辺も、安心してね。何~にも悪い事はしてないから」
「そうなんだぁ。よかった!」
「みんな、勘違いしちゃってるねぇ」
「そうだねぇ。悪気はないと思うよ~」
塔子の言葉に、子供達はホッとした表情を浮かべ、少しずつだがいつもの調子に戻ってきた。目もちゃんと合わせるし、硬く強ばっていた顔も柔らかくなっていった。三人で仲良くお風呂に入り、布団を三つ並べて寄り添って眠った。順番に背中を撫でてやると、気持ちよさそうに安心しきった顔で、スヤスヤと眠ってしまった。よかった。簡単に壊されるような細い絆ではなかったのだ。どれだけ惑わされようと、結局は日々の積み重ねや真の愛情に子供達は気付いてくれるものなのだ。寝入ってしまった子供達のふっくらと膨らんだ頬を見つめながら、塔子はそう確信した。

それでも。彼らがした事は許せない。彼らは絶対にしてはならない事をしたのだ。絶対にしてはならない大罪を犯したのだ。生まれて初めて体験する猛烈な怒りに、胸がカッと熱くなる。こんな感情は、初めてだ。私は許せない。絶対に、許しはしない。今、まさに立ち上がる時なのだ。

夜更けの寝室で、塔子は誓いを立てた。これまでの自分がちっぽけに思えるほど、怒りは塔子を奮い起たせた。戦うのだ。自らの名誉のため、戦うのだ。誰も味方にはなってくれなくても、たとえ一人ぼっちでも、そんな事はどうでもよい。私はもう決めたのだから。これまでの弱い自分と、さよならするのだ。私は、私の幸せのために、これからは生きるのだ。お母さんのために自分の全てを捧げてきた自分と決別出来たように、次は彼が奪い続けた自分の尊厳を、喜びを、取り戻す番なのだ。私は負けない。私はこれから先、何かに負けたとしても、もう自分には決して負けないと、固く心に誓う。


根なし草 全十話完


根なし草 1~9



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vol.107 根なし草 9

長くそれを持つ事は愛情と比例するのか、塔子にはよくわからなかった。しかし、塔子は早くそれを収まるべき場所へと移動させた。先日契約してきた寺が管理している永代供養の地へと、綺麗な箱に包まれた母を連れて出向いた。まだ、母が死んで数日後の事であった。冷たい娘だと後ろ指を指されても、一向に構わなかった。やるべき事はまだまだ山のようにあるのだし、一つ一つを順番に片付けていくような心持ちだった。

そもそも、自分は母に対して愛情などあったのであろうか? それについて深くは考えないできた。ただ、母の要求を聞き、要介護5になって寝たきりになってからは、病院側の要求を聞き、そうこうしている間にこんな状態になってしまった。猛ダッシュで走り続けていると、ふと気付いたらこんなところにいた、といった具合だ。それが自分の望んだ場所であっても、なかったとしても、ただあまりに早いスピードで景色はビュンビュンと後ろに過ぎ去り、それを動かしているのは確かに自分の足であっても、それすら無意識という有り様だったのだ。望んだ結果であろうが、望まなかった結果であろうが、そんな事は後付けだ。ただ求められるがままに動き、尽くした。それだけだった。

彼と子供達も一緒に付いて来た。事前に管理事務所にはこれから行くと連絡を入れておいた。彼の運転に揺られ、隣りで母を抱っこするように抱え込み、山道を登った。彼は始終無言だった。塔子はそれに薄気味の悪い違和感のようなものをずっと感じていた。何故、彼は何も言わないのだろう。こういう状況の場合、普通の夫婦ならどういう雰囲気になるのだろう。何故、私は慰めの言葉一つ掛けてもらえないのだろう。いや、実際に慰めの言葉や労わりの言葉が欲しいわけじゃない。ただ、社交辞令として、普通の夫婦間の流れとして、他の人達はどうなのだろう、とふと思うのだ。塔子に一切気遣いのない、その態度を奇妙に思うのだ。お前は贅沢だ、と結婚した頃、よく彼に言われた。問題が起きるとすぐに話し合いで解決しようとする塔子をせせら笑い、お前は蛇のようにしつこい女だといって話合う事すら不可能だった。その関係のまま数年が過ぎると、塔子の感覚は完全に麻痺してしまい、それが当たり前になってしまった。悪いのはいつも塔子。我慢が足りないのはいつも塔子。我儘で贅沢で甘ったれなのはいつも塔子。二人の中でそういう図式が完璧な形で出来上がってしまっていたのだ。塔子はそれに違和感や不快感を感じながらも、心の中でそれを全否定する気持ちもなかった。もしかして、そうなのかもしれない、と心のどこかで彼の言葉に賛同している自分がいたのだ。そう。全て自分が悪いのかもしれない。50代の若さで半身不随になってしまった母親を持つ、自分が悪いのかもしれない。現に彼の両親はピンピンしている。片親なのに結婚してもらった事を、有難く思わなければならないのかもしれない。我慢しているのはいつも彼の方で、実際自分は彼の足を引っ張っているだけなのかもしれない。そういった自己否定感が本来一番の敵である事にも気付かず、塔子は何年も何年もそういった違和感の中で暮らしていた。優しさを求める自分が甘いのだ、と自らを罰しながら、ただただ猛スピードで走り続けた。そういう生き方しか知らなかった。

思えば、彼には何から何まで塔子の全てを否定され続けた。趣味。友達。観たいテレビ番組。読みたい本。聴きたい音楽。部屋のインテリア。考え方。ファッション。風呂水の使い方。子供に注意する時の声のトーン。どれを取っても必ずなにかしらの否定の匂いを漂わせた。嘲笑。嘲り。無視。違和感を感じながらも、長い年月を重ねれば、それはまるで洗脳のように塔子自身に纏わりつき、染みつき、自己不信という悪魔の道へと塔子をじわじわと追いやるのに充分であったのだ。

事前に連絡を入れておいたので、到着してからの流れはスムーズだった。スムーズで、しかもあっけないくらい簡単なものだった。今日から暫く、母にはここで眠ってもらう。本当に納骨してしまうまで、一年の猶予がある。それまではここで静かに眠ってもらうのだ。広い墓地を、子供達は駆け回った。散歩にはよいコースだ。なんとなく離れがたく、美しく整備された墓地を歩いていると、彼の声がした。
「終わったんだろ? さっさと帰るぞ」
彼は後ろを振り向きもせず、一人で先に駐車場へと歩き出した。塔子は子供達を呼び、慌てて彼の後を追った。何故、私はいつも彼の後を必死で追わなければならないのだろう? ふとそう疑問に感じた。別れの余韻すら、私には味わう資格がないのか。惨めな気持ちが奥底から湧きあがり、塔子の全身を包んだ。帰りの車でも、彼は無言だった。
「あー。疲れた」
家に帰ると彼はどさっとソファに座った。一体、何に疲れたというのだろう。彼が何かしたのだろうか。彼が何をした事があるのだろうか。結婚してからこの9年、彼が何かした事がただの一度でもあったのだろうか。
「早く、ご飯」
「あ……うん」
塔子は喪服を脱いで慌ててキッチンに行き、晩ご飯の支度を始めた。いつもいつも、急かされるのだ。一体、何故こんなに急かされねばならないのかというほど、急かされるのだ。それも当たり前になっていた。野菜を洗って、包丁を出して切る。リビングで子供達がはしゃぐ声がする。テレビを観て大笑いしている彼の声が聞こえる。その瞬間、目の前のスイッチがカチッと嵌る音がした。いつも斜めを向いていた塔子の世界が、突然真っ直ぐになった瞬間だった。塔子は包丁をまな板の上に置き、リビングへと向かった。
「出て行って」
塔子は静かに彼に向かって呟いた。彼は塔子を見ようともせず、顔は画面に向いていた。
「出て行って」
もう一度塔子がそう言うと、彼はえっ?と笑い顔のまま振り返った。
「出て行ってって言ってるの! さっきから何度も言ってるの! もう無理なの! あなたと一緒にいるのはもう無理なの!」
気付けば声を限りにそう叫んでいた。彼の笑顔が張り着き、段々曇っていくのを冷静に見ていた。涙が後から後から自分の両目から流れていくのを感じた。自分の口が勝手に何かを叫んでいる。それはちゃんとした言葉で、ちゃんとした文章となり自分の口から出て行くのだが、何を言っているのか内容はわからない。ただ、腹の底からふつふつと沸き上がった思いが、9年間分の思いが、何の淀みもなくすらすらと自分の口から飛び出していくのを冷静に見ていた。彼の顔が岩のように硬くなっていくのと同時に、子供達の顔からも笑顔が消えていくのを冷静に見ていた。

彼が荷物をまとめている。初めての反撃にびっくりしたのか、彼はいやに素直だった。飼い犬に手を噛まれ、激昂してくるかと身構えていた塔子が拍子抜けするほどあっけなく、彼は悲壮感たっぷりの表情で、背中に自己憐憫を漂わせ、近所にある彼の実家へと去って行った。終わりだ。終わったのだ。私は全てを失ったのだ。父を失い、母を失い、そして今度は人生の伴侶すら失ってしまったのだ。もう自分には何もない。何もないのだ。塔子はその場にくず折れ、声を限りに泣いた。空っぽになった自分のどこにそんな水分があったのかと思うほど、涙はとめどなく流れた。背中で何かの気配がする。背を丸め泣いている塔子を子供達が撫でているのだった。お願い、触らないで、と塔子は心の中で叫んだ。ありがとう、ありがとうね、と口は勝手に子供達に向かって動いているのだが、実際は誰にも、子供であっても、誰にも触ってもらいたくはなかった。あぁ、一人じゃない。一人ぼっちじゃない。私にはまだ幼い子供達がいる。そう思うと塔子は勇気や希望どころか、絶望の淵へと立たされるような、じりじりと死神に首を絞められているような気がするのだった。私は誰かを守りたいんじゃない。もう、誰の事も守りたくなんかない。これまで散々、守らなくてもいい人をずっとずっと自分を殺してでも守り続けてきたじゃないか。私は誰の事も、もう守りたくなんかない。誰にも守ってもらえなかったのに。誰にも守ってもらった事なんてなかったのに……!

その日から、塔子と彼の別居生活が始まった。9年前、やっと根を張る場所を見つけた塔子は、再び根なし草へとなったのだった。


「根なし草」1~8



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vol.106 根なし草 8

喪服を着て、彼の運転する車に乗り込む。後ろの席には子供達が座っている。長女の沙耶は小学3年生に、海斗は1年生になっていた。
梅雨の時期だが、その日もよく晴れていた。車は母の住む町にある斎場へと向かっていた。弟夫婦も子供達を連れてやって来る事になっていた。現地で落ち合うのだ。車の中で、子供達ははしゃいでいた。久し振りにいとこ達に会えるのが嬉しいようだった。彼らはまだ8歳と6歳と若く、祖母が死んだ事がピンと来ていないようだった。入院、退院を昔から繰り返していた祖母に会う機会は殆どなく、親しみも悲しみも特に感じてはいないようだった。彼らは純粋に小学校を休める事が嬉しいようであった。非日常的なお出かけ。時々会ういとこに会える。子供達は始終笑顔だった。

火葬場に着くと、子供達は弟の子供達に駆け寄り、仲良く四人でお喋りをし始めた。持参した漫画を見せ合ったり、集めているキラキラシールをお互いに交換したりしていた。葬儀社の男がそっと塔子の傍に近寄り、最後の別れを切り出した。塔子は子供達を呼ぼうかどうしようか、暫く迷ったが、結局はそのまま待合室で遊ばせておく事にした。弟もそれでいい、と呟いた。彼らは祖母との思い出などあまりなく、仮に少しはあったとしても、さほど興味もなければ印象にも残っていないようだった。塔子の子供達にとって、祖母とは近所に住む父方の祖母である。月に何度も会って、一緒にお出かけしたり、ご飯を食べたり、なにやらプレゼントを買ってくれる、彼の方のおばあちゃんが、二人にとっての祖母であるのだ。弟の子供達とて同じ事だ。義妹の両親が近所に住んでいて、子供達はそこにべったりだ。彼ら四人にとって、本当のおばあちゃんは、まだまだ元気に生きている。死んだのは、殆ど記憶にも残っていない方の、名ばかりのおばあちゃんなのだ。塔子と弟はお互いの配偶者に子供達を見ていてもらい、そっと最後の別れをした。特に声を掛ける言葉も思いつかず、ただただじっと顔を眺めるのみであった。その後、場の人に呼ばれ、閉められたお棺は炉の中へと入っていった。最後のお見送りをしていても、塔子を含め誰も泣いている者などいなかった。結局、本当に伯母達は来なかった。火の入る音が辺りを包む。塔子、弟夫婦が合掌すると、それにならって子供達も手を合わせた。目を瞑り、神妙な顔をして手を合わせる四人の子供達の姿は愛らしかった。

二時間の猶予が出来た。待合室に戻ると、他の団体が来ていた。彼らは大勢で椅子に座って喋り、数人の子供達は走り回っていた。居心地の悪さを感じた塔子は、二時間も時間がある事だし、どこか別の場所へ行こうと言った。弟夫婦も居心地の悪さを感じていたのか、それに賛同した。
「でも、どこへ行きます? この服装でファミレスとかって入れるでしょうかね?」
義妹は自分の喪服を見つめながら言った。
「うーん。別に入ってもいいだろうけど、それもなんだか落ち着かないよな」
弟は首を傾げた。
「……あのさ、もしよかったら、うちに来ない? 遠いとはいえ、ここからだと30分も掛からないし。そんなにゆっくり出来ないけど、お茶くらいなら出来るしね」
「いいねー」
「いいんですか。有難いです。子供達もその間気兼ねなく遊ばせられますね」
弟夫婦は喜んだ。塔子は彼の方を振り返っていい?と尋ねた。彼は無言で頷いた。
「じゃ、行こう」
二手に分かれて車に乗り込み、塔子の自宅へと向かった。弟達と別れ、密室になった途端、彼は怒りを顕わにした。
「なんで、あの場でじっとしていないんだ!? わざわざ家に来る事はないだろう!!」
「……えっ……? でも、居心地悪くなかった?」
「オレは、居心地なんてどうでもいいんだよ! なんで勝手な事ばかりするんだ!!」
クラクションを派手に鳴らし、乱暴に前方の車両を追い越しながら、彼の怒りは収まらなかった。後ろで子供達が固まっていた。
「こんな無駄な事を、オレにさせやがって……!」
彼はそう言い放つと、それきり無言になった。家に着いてからも、始終無言だった。リビングのソファにどかっと座って腕を組み、自分は怒っている、という態度を隠そうともしなかった。弟夫婦とその子供達が家に到着しても、彼は一言も言葉を交わさなかった。彼らもいつもの事だという風に、その態度に対して何も言わず、気にしないフリをしていた。彼はいつもいつもこんな風なのだ。年に一度か二度しか顔を合わせない間柄であるが、彼は塔子の身内に歩み寄ろうとはせず、いつも壁を作っていた。結婚して9年になるが、彼はずっとそのスタンスだった。自分が弟夫婦の家にお邪魔している時でさえ、彼はいつもそのスタンスであった。

お茶を飲んでいる間、子供達は二階の子供部屋で大騒ぎをして遊んでいた。塔子が彼にお茶を勧めても、いらない、の一点張りだった。塔子は放っておいて、弟夫婦と三人で飲んだ。ふと、本当にふと、先日見た夢の光景が脳裡に広がった。あの黒い大きな犬は死んだ。あの犬の最後を見守っていたのは、自分と弟と、そして顔の見えない誰かだった。きっと、あれは彼ではなかったのだ。あれは、子供達の内の誰かでもなく、伯母や伯父でもなく、おそらくあれは……。
「おい。そろそろ出ないと間に合わないぞ」
彼が不意にソファから立ち上がり、玄関に向かった。塔子は時計を見て訝しがった。まだ時間はある。それでも、彼が行くと言ったなら、その時が時間なのだ。塔子は諦めて立ち上がった。二階で遊ぶ子供達を呼び、また二手に分かれて車に乗った。車の中はしん、としていた。塔子も彼も、一言も言葉を交わさなかった。両親の重い沈黙を感じ取ったのか、子供達も無言だった。結局到着するまで、四人は一度も喋る事はなかった。

待合室に入って暫く待つと、係の人が呼びに来た。先程の場所に移動すると、扉が開いて、中から骨だけになった母が出て来た。子供達のハッと息を飲む音が聞こえた。塔子はまだ温かい骨を、骨壷に入れた。
「こうやって、拾ってこの中へ入れるの。やってみる?」
四人も子供がいれば、うん! やる! と意気揚々と身を乗り出す子もいれば、無言で骨を見続ける子、ぼうっと放心状態の子、様々であった。塔子は淡々と骨を拾った。
「ほら、これが喉仏。本当に仏様みたいな形をしているでしょ?」
自分でそう言いながら、この言葉を遥か昔、どこかで聞いた事があるような気がした。そうだ。あれはひいおばあちゃんが死んだ時だ。自分はその時今の子供達くらいの年齢で、生まれて初めて人の死を目にしたのだ。そして、その時喉仏の話をしたのは、まぎれもなく母だった。あぁ。時代は回っている。回っているのだ。

「沙耶ね、あの箱、プレゼントだと思ってたの」
骨を拾いながら、長女の沙耶がクスッと笑いながら塔子を見上げた。
「ん? 何の事?」
「おばあちゃんが入ってたんだね。だから皆で手を合わせてたんだね。今、わかったよ」
「えっ? 棺桶の中にプレゼントが入っていると思ってたの?」
「そう。おばあちゃんはどこか別の場所にいて、おばあちゃんに渡すプレゼントが箱に入っていると思ってたんだ。なんで皆プレゼントに手を合わせるのかなーって不思議だったんだぁ」
「で、今骨になって出て来て、やっと意味がわかったんだね」
「うん。びっくりしたぁ。人って死んじゃうと、焼かれて骨だけになっちゃうんだね。ホカホカの」
「そうだね」
沙耶の素直な発言に、塔子はそっと微笑んだ。やはり、最後の別れをさせておけばよかったかな、とチラと思ったが、もう遅い。
「人間の形してるね。ちっちゃな人間みたい」
沙耶は喉仏を見つめながら、そう言った。

弟夫婦とその子供達と別れ、車に乗り込んだ。先程とは違い、腕の中には骨壷がある。それを抱えながら、塔子は無言だった。彼も無言だった。骨壷を落としてしまいそうなほど、彼は帰り道を飛ばした。気遣う言葉も何もなく、ただ煙たがられている事だけを感じていた。人一人死んでも、こうなんだな。ここで気持ちに寄りそわなければ、一体夫婦でいる意味ってどこにあるのだろう。この腕の中にある、60年灯り続けた光が消えた重みを持ってしても、彼は変わらないのだ。きっと、これからもこのままなのだ。塔子は頭を抱え込んで叫び出したくなったが、腕には骨壷があるので頭を抱える事すら出来ない。身じろぎもせず前方を向く塔子を乗せて、静かな車内は移動を続けた。


「根なし草」1~7


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vol.105 根なし草 7

それから暫くして、葬儀社の人がやって来た。彼らは母に手を合わせ、テキパキと亡骸を車に運んだ。塔子と弟と弟の奥さんは、世話になった医師や看護師達に、最後の別れを告げた。医師は神妙な表情を浮かべ、看護師の中の何人かは目に涙を浮かべていた。お礼を述べて車に乗り込むと、彼らは車が遠ざかるまで見送っていた。もう、ここに来る事はないのだ。おそらく、永久に。山の中にひっそりと佇んでいた大きな病院が、木々の緑に囲まれて見えなくなっていく。目印の看板がなければ、そんなものがこの中にある事すら誰も気付かないかもしれない。けれど、それは確かにあるのだ。あったのだ。ここに転院してからは毎日来る必要がなくなったので、以前ほどは通わなくなってはいたが、それでもここ数年の間、度々ここを訪れていたのだ。純粋に母に会いに来る事もあれば、治療が変わる度に説明を聞きに来て、資料に判を付きに来たのだ。往復四時間の道中は、まるで旅のようだった。それも、今日で幕を閉じたのだ。

車は母の住む街へと目指した。塔子も弟も一度も住んだ事のない街だ。母は以前、塔子の暮らす街に住んではいたのだが、ちょうど塔子の最初の子供が生まれた時に、まるで逃げるようにしてその街を離れたのであった。近所に住んでいては、孫の面倒をみなければならないとでも思ったのだろう。それはもうわかりやすく、悪びれるでもなく、あっけらかんとしたものだった。やがて長い長い道中を経て、車はとある会館へと辿り着いた。
「こちらで暫くお待ち下さい」
案内されたロビーのソファに、三人は腰を降ろした。クーラーがよく効いていた。塔子達の前に、お茶が出された。三人は黙ってそれを飲んだ。暫く待つと、先程母を迎えに来た男性が再び現われ、塔子達の目の前に座った。彼は書類を出し、淡々とプランの説明を始めた。塔子はそれで構わないと告げ、弟に目をやった。弟も頷いた。塔子は必要な書類に記入し、男に渡した。彼はその書類を眺めたり、カレンダーを眺めたりしながら、火葬場に連絡を取り始めた。日時は決まり、火葬場の場所を記した書類を手渡され、三人は母のいる部屋へと案内された。

部屋の中はとても涼しかった。母は棺桶の中で眠っていた。線香の匂いがし、ろうそくの火が揺れていた。
「どなたか、お見えになられますか?」
「……あ、忘れてました。伯母に連絡を取ってみます。もしかして、今から来るかもしれません」
「わかりました。ここでは一晩中ご遺族の代わりにこちらがご遺体を看る事も出来ますが、どうしますか?」
「では、お任せします」
冷たい娘と思われようが、そんな事を構っている余裕はなかった。実際、火葬までの日にちは、火葬場の都合で中一日空いてしまったのだ。自宅へ連れて帰るにも彼の事を思うと、とてもそんな気にはなれないのだった。そもそも、母は塔子の家に暮らした事もなければ、来た事も殆どない。母とて是が非にも娘の家に来たいとは思っていないだろう。
「では、お帰りの際は声を掛けて下さい」
年配のその男が立ち去ると、三人は順に母の前に座り、線香を立て、手を合わせた。ふと見ると、ろうそくが本物ではない事に気付く。コンセントが付いていて、まるで本物のように揺らめきながら灯っているのだ。という事は、線香だけ絶やさず見ていればいいのだな、と塔子は思った。弟と義理の妹に指さすと、二人もふん、ふん、なるほど、という顔をした。便利な世の中になっているね、と三人は口ぐちに呟いた。

彼と伯母に連絡を取ると、する事もなく、三人は他愛のない話をした。義妹が途中で飲み物を買いに出て行った。弟と二人になると、塔子は声を掛けた。
「ここは見ておくから、もういいよ、帰っても。私も伯母さんが来たら帰るし」
「いや。お姉ちゃんが帰るまでは一緒にいるよ」
「今度会うのは火葬の日だけど、大丈夫? 場所の紙、コピーしようか?」
「大丈夫。さっき見て覚えたから」
義妹がお茶やジュースなどを買って戻ってきた。
「子供達、大丈夫? もうする事もないし、帰ってもいいんだよ?」
塔子がそう声を掛けると、義妹は大丈夫です、と微笑んだ。
「実家に子供達を預かってもらうので、大丈夫です。学校が終わったらおばあちゃんの家に行くのよって言っておいたので」
「そう? 本当に気にしなくてもいいからね」
義妹はにっこり微笑みながらお義姉さんこそ、気にしなくてもいいんですよ、と呟いてお茶を塔子と弟に配った。
「それより、外はびっくりするくらい暑いですよ」
「今年一番の暑さなんだってね」
「まだ、梅雨も明けてないのに。なんだか、部屋の中、クーラーが効きすぎて寒いくらいですね。ちょっと、緩めてもいいですか?」
「あぁ……。私もさっきそう思ったんだけど、緩めちゃいけないのかも。……ほら、こんなに暑い日だし。お母さんがいるし……」
「あっ! なるほど、そうですね。ごめんなさい、気が付かなくて、私」
「何も選りによってわざわざこんな暑い日に逝かなくてもねぇ……」
塔子はそう言いながら、ふと昔母が言っていた言葉を思い出した。人は、生まれた季節と真逆の季節に死ぬのだ、と確かに母はそう言っていた。他の人のは知らないが、母に限って言えば、それは本当に当たっていた事になる。

一時間ほどして、伯母が伯父を引き連れて到着した。久し振りに会う伯母は血色もよく、母の姉だがまるで妹のように若く見えた。
「私より先に逝ってしまうなんて……っ!」
母に被せていた布を取ると、伯母はわあぁっと大声で泣き始めた。静かだった部屋に、伯母の泣き声がこだました。ひとしきり済むと、伯母は不意に冷静になり、母と疎遠だった事を詫び、これまでの経緯を尋ねた。塔子は長い長い話をする気にもなれず、適当にかいつまんで聞かせた。
「私もねぇ。足の調子が悪くって。そんなに元気でもないのよ。東京の兄さんに連絡を取ったんだけど、向こうも今入院中で、とても来れそうにないんですって」
「そうですか」
「まぁ、塔子ちゃん、しっかりしてるから、全部任せておけば大丈夫よね。伯母さんがどうこうしなくても。私もほら、足の調子が悪いしね」
「葬儀は明後日で、身内だけの簡単なもので済まそうと思ってるんです」
「でも私、この足だからねぇ……困ったわ」
「……私達だけで、お見送りするから大丈夫ですよ」
「そう? じゃあ、申し訳ないけど、お任せしようかな。また、何かあったら、連絡ちょうだいね。私もするし」
伯母はそう言い残し、早々に帰って行った。伯母は、相変わらず伯母だった。何も変わってはいない。これから先、塔子から連絡する事なんて何もないだろう。そして伯母からもきっと連絡は来ないのだ。おそらく、今日この日を限りに。永遠に。

遠ざかる伯母達に手を振る。母がどこで眠る事になるのか、その場所さえ聞かなかったな、あの人達。塔子はふっと笑った。手を振る塔子の視線の先から、伯母達が消えていく。それと入れ替わりに、彼がゆっくりとこちらに近付いて来るのが見える。ようやく、来たのだ。
「なんだ、元気そうじゃん」
彼は塔子に近付き、開口一番、そう言った。
「もっとこう……泣いて泣いて大変なのかなーって思ってた。なんだ、全然平気そうじゃん」
何と答えてよいのかわからず、塔子は曖昧に頷いた。弟と、弟の奥さんと一緒にいたこの数時間とは明らかに違う、何か異物が侵入して来たような、とてつもなく次元の違う何かが紛れ込み、場の空気をかき乱されるような気配に襲われた。

今、一つの時代は過ぎ去った。それはその年一番暑い日に終わり、新たな戦いのステージへの幕開けとなった。


「根なし草」シリーズ



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vol.104 根なし草 6

梅雨の中休みなのか、痛いほどに陽射しが照りつける暑い日だった。
車を停め、塔子と弟はロビーへと駆け込んだ。まだ早朝という事もあり、院内はがらんとしていて、人影はどこにも見当たらない。広いエントランスを通り抜け、長く薄暗い廊下を早足で歩く。途中、簡易式の開閉ドアのロックを外し、通り過ぎればまた鍵を掛ける。何度かそれを繰り返した後、やっと目的のエレベーターに辿り着く。重厚なドアが閉まり、エレベーターは二人を目的の階まで運ぶ。扉が開くと、目の前にある詰所から、見知った看護師が二人出て来た。
「お気の毒ですが、一時間ほど前に……」
看護師はそこで何故か言い淀んだ。言葉を繋げられない若い看護師に代わって、今度は年配の看護師が手招いた。
「こちらにいらっしゃるから。お顔を見て上げてね。綺麗だから」
通された部屋は、数日前に母が移っていた、広い個室の部屋だった。もう、長くはないと言われた時から、母はその部屋に移されたのだ。前に来た時は母はすでに昏睡状態で、塔子がいくら呼びかけても、目を覚ます事はなかったのだった。
「お身内だけで、ゆっくりお別れしてあげてね」
年配の看護師は優しくそう言い、ドアを開けた。塔子と弟が入ると、後ろで静かにドアの閉まる音がした。とても広いがらんとした部屋に、母はいつものように眠っている。いつもと違うのは、顔には白い布が被さっているところだ。
「あぁ」
ベッドまで進める足が、うまく動かなかった。とてつもなく長い距離に感じた。それでもなんとか歩みを止めず、塔子は母の元に辿り着いた。震える手で布を拭うと、そこには美しく化粧を施した母が眠っていた。お母さん! お母さん! その叫びは喉元まで出かかった。うわぁっと泣いて縋り付きそうになった。

「安らかに眠ってる」
塔子の背後で落ち着いた弟の声がした。塔子は我に帰り、占領していた場所を弟のために空けた。弟は何も言わず、じっと長い間母の顔を見つめ続けた。心の中で何かを母に向かって語りかけているのか、それともただ静かに事態を把握しているのか、塔子にはわからなかった。弟はやがてくるりと踵を返し、塔子に向き直った。
「化粧した顔、久し振りに見た」
弟の穏やかな表情とトボケた発言に、一瞬激しく起こりそうだった慟哭のようなものが、スーッと消えてなくなっていくのを、塔子は感じた。
「ほんとだね。でも、お母さん、こんな色の口紅、付けなかったよね」
「うん。激しく違和感」
二人はくすっと笑い合った。
「ありがとう。一緒に来てくれて。私一人で先に着いていたら、どうなっていたかわからない」
「お姉ちゃんは充分にやったよ。何年も。一人で」
弟は母の顔を見つめながらそう言った。
「何も知らずに再婚して、どこかで呑気に生きている親父は当てにならないし、俺は遠方で全然当てにはならなかったしね。小さな子供二人もいるのに、よく頑張ったと思うよ」
「何をエラそうに……」
塔子はそう呟きながら、じわっと涙が出そうになるのを、慌てて堪えた。心の中で、弟に何度もありがとう、ありがとう、と呟いた。その言葉だけで、その労いと償いの気持ちだけで、私は頑張った甲斐があったよ、と弟に合掌したい気持ちになった。たくさん、たくさん、恨んだ。父を。母を。周りの幸せなママ友を。舅を。姑を。義姉を。彼を。自分を。母より早く、自分が死んでしまいたいほど悩んだ事もあった。それらの混沌とした黒く薄汚れた感情が、弟の言葉で全て報われたように思えた。終わった。やっと終わったのだ。

コンコン、とどこか遠慮気味なノックの音が背後からした。二人が振り返ると、そこには義妹が立っていた。弟が立ち上がり、大股で歩いてドアを開けた。
「来てくれたのか」
「うん。子供達は大丈夫だよ。私の実家に預かってもらうから」
義妹は静かな声でそう言い、塔子にそっと近付いて来た。
「お義姉さん……この度は……ご愁傷様です……」
深々と頭を下げる義妹に、塔子は微笑みながらその肩を抱いた。
「大丈夫だよ。私達二人だけしかいないし、そんなに硬くならなくても。それより、わざわざ来てくれたんだね。どうもありがとう。遠かったでしょ?」
「いえ、そんな……」
「母に会ってくれる?」
義妹はこくんと頷き、母に近付いた。弟の横に寄りそうようにして、義妹は母と対面した。お義母さん……と小さく呟き、義妹はハンカチで涙を拭った。大丈夫だよ、というように、弟は義妹の背中を優しくトントンと叩いている。それは心温まる、素敵な夫婦愛の縮図のように映った。

暫くして、トントンと再びドアをノックする音がした。はい、と塔子がドアを開けると、歳の若いあまり見覚えのない看護師が立っていた。
「この度はご愁傷様です……」
彼女は神妙な顔をして、そっと頭を下げた。塔子も静かに頭を下げた。
「あの……葬儀の手配などは、もうお済でしょうか?」
「あ……ごめんなさい。まだです……」
「いえ。突然の事なので、手配されてらっしゃらなくて当然ですよ。あの、これ、こちらでお渡している葬儀社の一覧なんです。よかったらどうぞ」
彼女はそう言って、塔子にファイルを手渡した。
「わざわざすみません。ありがとうございます」
塔子はそう言って受け取った。
「ここに記載されている葬儀社以外でも、別に構いませんよね?」
「はい。それはもちろん大丈夫です」
歳若い看護師はそう言って穏やかに微笑んだ。そして来た時と同じように静かに去って行った。
三人だけになると、ファイルを開けて、葬儀社の検討を始めた。身内だけで静かに送る事に決めていたので、大手の葬儀社は不向きであった。家族葬で充分であったので、彼女が渡してくれたファイルに載っているところは、どこも自分達とは合っていないような気がした。
「私、前からちょっと調べてたんだけど……」
塔子はスマホを出して、検索した。
「こことか、よくない? こじんまりとしたところで」
塔子がスマホを差しだすと、弟は画面をスクロールしながらうん、と呟いた。
「大層にするわけじゃなし。俺もここでいいと思う」
「だよね。じゃ、ここに連絡してみるよ」
塔子は電話を掛けた。話は驚くほどトントン拍子に進み、二時間後に引き取りに来る事になった。
「……なんだか、あっけないね。今から出て、二時間くらいで着くって。お母さんの家の住所と今私達がいる場所があまりに離れているから、びっくりしていたみたい」
電話を切って塔子がそう言うと、二人は無言で頷いた。やがてハッとした顔になって、義妹が突然立ち上がった。
「お義姉さん、お腹、空いてませんか? 朝から何も食べてらっしゃらないでしょ」
「うん……でも全然食べる気がしないし」
「ダメですよ。これから葬儀社さんが来られたらますます忙しくなるんだし。今のうちに何かちょっとでも食べておかないと。ね? 私、何か買って来ます」
「ありがとう、かなちゃん。ホントにいいのかな」
「いいんですよ! 適当に何か、見繕って来ますね!」
義妹が出て行くと、弟がすっと立ち上がった。
「俺も行って来る。まだ売店も開いてる時間じゃないし、外は山ばかりで店を探すにも大変だし」
「そうだね。行ってあげて」
弟が後を追って行ってしまうと、急に部屋の中がしん、となった。部屋には生きている人が一人。亡くなった人が一人いた。塔子はファイルやスマホなどを小さなテーブルの上に置いて、母に近寄った。
「やっと、二人きりになれたね」
塔子は微笑みながらそう呟いた。
「……あのね。何か言いたい事があるような気がするんだけどね。何だったのかな。もう、思い出せないよ」
塔子の囁きが聞こえるはずもなく、母はその場でじっとしていた。
「いっぱいいっぱい言い残した事があるような気がするんだ。でも、それが何だったのか、全然思い出せないの。不思議だね」
塔子は椅子を持って来て、母の横に座った。
「……でも、お互い、頑張ったと思うよ。お母さんも、私もね。納得のいかない人生を。なんとかやり切ったよね……」
塔子は頬杖をついて、母の寝顔をじっと見続けた。終わったのだ。これで本当に終わりなのだ。これから、何かが変わるのだろうか。
「……よかったね、お母さん。もう、苦しまなくていいんだよ」
そう呟き、塔子は白い布を母の顔に被せた。

ゆっくりおやすみ、お母さん。後の事は全部塔子に任せて。いつものように、ゆっくりおやすみ。


「根なし草」シリーズ



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vol.103 根なし草 5

その電話が来たのは、まだ夜も明けない早朝の事だった。
その時に限って、塔子は深い眠りについていた。皮肉なもので、この数日間、眠れない日々が続いていたのだ。気を緩めてはいけないと自らに言い聞かせてでもいるように、気を休めるのが何故だか恐ろしかったのだ。病院からは何度も電話が入った。母が長くはないのだ。眠れない日々が続く中で、それは一瞬の気の緩みだった。塔子は完全に眠りに落ちていたのだ。

不思議な夢を見ていた。
小雨の降る中、一人歩いていた。薄暗い夕方だった。アスファルトの窪みには、既に水溜りが出来上がっていた。どこを目指しているのかわからぬまま、塔子は歩みを進めていた。ふと気が付くと、前方に大きな水溜りがある。中に何かがいる。近寄って覗いてみると、そこには溺れた母が浮かんでいた。目は半開きになり、口もぽっかりと開いている。顔は異様に白く、半開きの目は虚空を眺めていた。まるで死んでいるようであったが、母は確かに生きていた。塔子は必死になって母を水溜りから引きずり出し、肩に背負って歩きだした。
場面は変わり、塔子は見知ってはいるが、普段あまり行かない公園の中にいた。既に雨は上がっていたが、空は一面灰色のままだった。塔子は公園の広場に座っていた。目の前には真っ黒な犬がいる。犬は横たわり、荒い息をしている。あぁ。この犬はもうすぐ死ぬのだな、と何故か塔子はそう思った。ふと、その犬の臨終を見つめているのが、自分一人ではない事に気付き、塔子は顔を上げた。自分の正面には弟がいる。そして、もう一人、誰かが犬を見ている。そのもう一人が誰なのかはわからない。三人に囲まれた黒い犬は、今、静かに死んでいくのだ。

「おい、起きろ」
不意に彼に起こされ、塔子は我に返った。眠れない日々が続き、うっかり眠ってしまっていた自分に気付き、飛び起きた。
「病院から、電話だぞ」
彼の言葉に、塔子は確信した。リビングへと入り、恐る恐る受話器に手を伸ばした。
「はい。鈴木です」
「こちら○○病院です。お母様、危篤状態になられました。今すぐこちらに来て下さいますか?」
「わかりました。すぐお伺いします」
塔子は電話を切り、時計を見た。4時半。まだ外は薄暗い。今から出掛けて、バスや電車はあるだろうか。それより、何時に帰れるかわからないから、子供達の居場所を確保しなければ。塔子が焦っていると、彼がのんびり部屋から出て来た。パジャマから服に着替えていた。
「お母さん、危篤だって」
塔子が彼にそう言うと、彼はそっかぁ~と間延びした返事をした。
「じゃ、オレ、もう目が覚めちゃったし、今から仕事に行って来るよ」
塔子は我が耳を疑った。
「えっ? 何言ってるの? 今から私、病院へ行かなきゃいけないんだよ? お母さん、持ち直したところで、今日は何時に帰れるかわからないよ。子供達、どうするの?」
「え~~。そんな事、オレに訊かれても……」
彼はそう言いながら、塔子を押しのけて玄関へと向かい、靴を履き始めた。塔子は慌てて、彼の袖を掴んだ。
「ちょっと! しっかりしてよ! 仕事に行くのは構わないけど、子供達、どうするの?」
「はぁ~~。わかったよ、煩いなぁ。じゃ、今からオレの実家に連れて行ってやるから、起こせよ」
塔子は慌てて子供達を起し、手荷物の準備を済ませ、三人を送り出した。バタバタしていてまるで気が付かなかったが、彼は危篤と聞いても一度も大丈夫か?という心配の言葉もなければ、オレも一緒に行くよという気遣いの言葉もなかった。嵐のように過ぎ去った後で、今更ながらに不信に思った。だが、それをじっくり考えている暇はない。塔子は弟に電話を掛けた。
「お母さん、危篤だって」
「わかった。今から行くよ。車で行くから、そっちに寄ってから行くようにするよ」
「でも、遠回りになるよ」
「だって、まだ電車とか動いてないでしょ。とにかく落ち着いて。焦ったって二時間以上は掛かるんだし、間に合わないなら間に合わないで仕方ないよ。それより、子供達はどうするの。連れていくの?」
「ううん。向こうの実家に連れて行った。預かってもらう。まだ行ってみないと状況もわからないし」
「じゃ、小学校に休みの連絡を入れないと。まだ誰もいないだろうから、暫くしてから掛けて」
弟の現実的な言葉に、塔子は次第に落ち着きを取り戻した。
「うん……。うん、そうだね。後で電話を掛ける」
「これから用意して、すぐに出るよ。取り敢えず、お姉ちゃんもゆっくり落ち着いて準備して。高速で行くから一時間ちょっとでそっちに着くと思う。また近付いたら電話するから」
「うん。どうもありがとう」
受話器を置いて、塔子はふぅーっと長い息を吐いた。頭が真っ白だったのが、弟の言葉で徐々に現実に戻ってきた。そうだ。タクシーを飛ばしたって結局は二時間は掛かるのだ。その二時間の間に母が逝ってしまったとしても、これはどうしようもない事なのだ。運命を受け入れよう。塔子は大人しく弟を待つ事にした。身の回りの準備を済ませ、学校へ連絡を入れる。余った時間で洗濯物を干した。ちょうど干し終えたところで連絡が入り、塔子は弟と合流した。
「遅くなってごめん。乗って」
「うん。ありがとう」
「やれるだけの事は充分したから。間に合わなくても、自分を責める事はないと思う」
「うん……。そうだね……」
弟の言葉が有難かった。梅雨の中休みなのか、太陽が車内を容赦なく熱した。クーラーを掛けていても、気温はどんどん上がっていった。
「今日は暑くなりそうだね」
「ほんと。向こうはどうだろう。山奥だから涼しいかな」
塔子と弟は何気ない話をポツポツとした。殊更、母の話題には触れないようにした。
「会わない時は何カ月も会わないのにね」
やがて弟がクスッと笑いながらそう言った。
「ほんと、そうだね。会うとなると続くよね」
つい先日、弟とは会ったばかりだった。一緒に、母の墓地の契約をしてきたばかりなのだ。
「やっぱり、ああいうのってさ。生前にしない方がよかったのかな。契約したばかりで危篤の連絡が来るなんて」
塔子が苦笑いでそう言うと、弟は真顔で違うだろ、と言った。
「逆に、よかったんだよ。行き先がない方が不安だろ。ちゃんとしておいた方がよかったんだよ」
「でも、タイミング、良すぎない?」
「まぁ、確かに」
二人は同時にフッと笑った。笑うしかなかった。

梅雨の晴れ間の陽射しは強く、その日一日が暑くなりそうな気配を投げかけていた。ほぼ誰もいない道路を走り抜け、二人は病院へと急いだ。やがて緑の木々が鬱蒼とした山々を越え、目指す病院が見えてきた。


「根なし草」1,2,3,4



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