vol.118 目覚め 7

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最終決断はいつでも出来る。離婚の道を選ばなかった塔子にとって、その後の生活は日々観察だった。彼の行いの何に嫌な気持ちになっていたのか、彼の発言の何に傷ついていたのか。それらの全てを彼に提示した今、その後相手がどういった行動に出るかは、塔子の問題ではなく彼自身の問題だった。

ちょうどその頃、立て続けに彼の友人の数名が離婚したり、別居の道を辿った。彼らの話を聞いていると、面白いくらいに内容が酷似していた。彼らは、何も悪くないのだ。彼らは被害者であって、原因を作ったのは全て妻の方だと言う。妻側があれをしないから。妻側がこれをしてくれないから。妻側が自分に冷たくなったから。妻側が自分を捨てて出て行ったから。
原因は見事に相手の方にあるらしく、自分達には一切非がないらしい。原因を作ったのはいつも妻の方で、彼らには何の落ち度もなかったのだ。へぇ。そう。塔子は内心類は友を呼ぶと思いながらも、当たり障りのない返事をして何の関心も示さなかった。心の中では少し笑っていた。夫婦間の事など、正味のところは誰にもわかりはしないものだが、子気味いいほど自分達は何も悪くはない、自分達は被害者である、と信じて疑わない彼らの性根を、根本を、訝しく思った。

塔子は最近、自分が人一倍騎士精神というものに興味があり、それを実行してきた事を知った。男だとか女だとか、そういった事は関係ない。誰かが何かを守る精神というものが、塔子の真ん中に核のように絶対不滅にあり、それが当たり前だと思って生きてきたが、どうやらそれは万人に備わっているものではないらしい、という事実に三十も過ぎてようやく気付いたのである。自分の夫を含め、彼の友人達もそれを持っていない類の人種で、それは何も別に恥ずべき人生ではない事はおろか、そういった騎士精神を持たない者の方が漠然とした数として圧倒的に多いのだという事に気付いたのである。
そんな精神を持っていたところで、特に何のメリットもなければ逆に不都合もないのだが、成長の過程で環境と己の思考が絡み合って生まれたその偶然の産物を、塔子は大なり小なり誰しもが当たり前のように持っているものだとずっと思っていた。けれども、実際はそうではない。全く持ち合わせていない者だっているのだ。誰もが同じ経験をし、同じ道を辿るのではないから、当然といえば当然の事であるのに、それに気付いた塔子は暫し愕然とした。

塔子はマントを翻し、あてにならなくなった父の代わりに、母を、弟を守った。その心中は、初めて結婚し、妻をめとった若い男のような気持ちだった。これまでは身軽であったけれど、恋に恋していればそれでよかったのだけど、これからは一人前の人間として、妻子を食べさせていかなければならない。当時の塔子はそういった、初めて責任という重みを知った未来ある若く純真な新郎のような心持ちだった。自分が本当に結婚してからは、夫を、子供達を、そして母を守った。自分の盾が既に修復不可能なほどに傷んでいたところで、途中で闘いをやーめた、と投げ出す事は出来なかった。彼らは皆、塔子のマントに包まれ、安心しきっているのだ。剣が欠けてもう使えなくなっていたところで、彼らは塔子のマントの中に隠れているのだから、実際のところを知る由もない。ただなんとなく、今は順番的に自分がそういう闘いの先頭に立たされている番であって、いつか誰かがこの辛い役を代わってくれるに違いない、と塔子は思っていた。マントの中で眠りから覚めた時、いつか誰かが代わるよ、と言ってくれるのではないかと淡い期待をしていたのだ。本物のジェントルマンは今はただ眠っているだけで、まだその核が小さいだけで、その行いを恥ずべき行為だと知らないだけで、一度灯がつけば起き上がるものだと信じていたのだ。ところが現実はそんな甘いものではなく、そもそも彼らは騎士道精神など最初から持ち合わせてなどいなかったのだ。そして、それは何も恥ずかしい生き方でもなんでもなく、至極当然なのだと塔子は最近になってやっとわかってきたのだ。

持って生まれた性質もあれど、環境によって育まれた後付けの性質もあるならば、塔子の騎士精神は断然後天的なものだった。環境によってそうなるべくしてなったのだ。自分が完全なイネイブラーでプラケーターだった事と関連しているのかもしれない。おそらく、自分は無意識的にせよ騎士道精神を持たない種類の男というものを、腹の底から圧倒的に軽蔑しているのだ。蔑み、憎悪しているのだ。その心根を醜悪だと感じ、侮蔑しているのだ。彼らだって悩みを持ち、彼らなりの正義と判断で日々生活をしているのだろうが、そもそも一家の主になろうと覚悟した者は、自分本位な考え方を、弱者を見捨てる生き方そのものをすべきではない、と塔子は思っていたのだ。それは表立ってではなく、井戸の底の冷たい水のようにひっそりと隠されていた思考だった。塔子自身、自分の内にそういった思考がある事を、それが自分というものを創り出している大本である事に、長らく気付いてはいなかった。

父の裏切りによって刻まれた心の傷は、後に残された人生の過酷さからか、後々ジワジワと塔子を追い詰める類いのものだった。弟はまだ学生で、一人前ではなかった。まるで救世主のように煌びやかに現れた彼も、見た目は大人だが中身は幼児とさほど変わらなかった。父も、弟も、彼も、義父も、塔子の周りにいる男は誰も騎士精神など持ってはいなかった。塔子は意識する事なく、その事実をどこかで嘲笑っていたのだ。何も口に出さず、何も態度に出さず、自分でも気付いてはいない状態で、それを持たぬ者を見下していたのだ。奥底で塔子という人間を象っているその精神を大抵の人は何の関心も持ってはおらず、もっと別の掛け替えのないものでその隙間が埋まっているというのに、塔子だけがそれをまるで勲章のように後生大事に抱え込んでいたのだ。その精神は特に褒められたものではなく、まるで菓子を買った時にたまたま付いてきたおまけの玩具のような、なくても別段誰も困らないちっぽけなものだったというのに。

マントの影に隠れた男を、卑怯者だと思っていた。臆病者だと思っていた。塔子の後ろにまわり込み、肩を掴んで敵にグイッと差し出してから隠れる者が増えていくほど、塔子の中で被害者意識が芽生え始めた。だが、それは塔子の個人的な感想であって、彼らにとってそれは当たり前の行いであったのだ。それを恥ずかしいと思わない者がいても、ニュートラルな観点から捉えれば、様々な人種がいるのが世の摂理だ。思想も星の数ほどあり、考えもそれぞれ違う。違って、当然なのだ。塔子のマントに包まれた彼らは保身こそ全てであって、自己犠牲や博愛精神や騎士道精神などに何の興味もないのだ。確かに、彼らは一種の狡さを持っていた。その狡猾さは事実として確かにあった。それでも、そこから自分が被害者であるという意識を生み出したのは紛れもなく塔子自身なのだ。それは誰に植え付けられたものでもなく、正真正銘自分が創り出した意識であったのだ。

父の事がなければ、あるいは塔子はそういった精神を持たない人間になっていたかもしれない。しかし、それがあったからこそ、いつも彼に過度な期待をしていたのではないか。彼が持ち合わせていない人種だと薄々気付きながらも、いつかは自分のこの辛い人生を共に生きてくれるはずだと意識すらせず期待していたのではないか。夫婦なのだから、喜びも悲しみもお互いに半分ずつ分け合ってもらえるものだと期待していたのではないか。彼という個性を無意識に否定し、新たな父性の代替え品として期待していたのではないか。そして、彼はそれに気付いていたのかもしれない。塔子のそういった期待に気付き、それに応える意欲もなく、力もなく、見ない振りをしていた。彼のその態度に徐々に塔子は被害者意識を募らせたが、彼は当たり前の日常を普通に生きているだけだった。彼にとって人間とは狡い事もする存在であり、敵が現れれば真っ向から闘うのは愚か者のする事だと思っており、自分自身が何よりも一番大切な存在である事を、配偶者より娘より息子より何を差し置いても自分という存在が一番大切であるという姿勢を、隠そうともしなかった。塔子にとって、弱い自分をさらけ出すのは屈辱以外の何物でもなかったが、彼にとってそれは息を吸うように意識する事なく当たり前に行う動作の一つでしかなかったのだ。人は、弱くてもいいのだ。人は卑怯でも狡猾でもそれを許される環境下にあるのなら、何の不都合もありはしないのだ。そういう人間が大半を占めているのが、この社会だったのだ。

それに気付いた時、塔子は彼への期待を一切捨て去った。彼は父の代用品ではない事が、やっと理解出来たのだった。不気味なほどそっくりな彼ら二人の類似点も、やっと納得出来た。人生に失敗し、空中分解してしまった家族を取り戻そうと、よく似た新たな人材を見繕ってきてやり直さなくても構わなかったのだ。なんと自分は愚かな時間を費やしてきたのだろう。そしてなんと愚かな結婚をしてしまったのだろう。何の罪もない子供まで生んで。どれだけの年月を虚しく浪費してきたのだろう。そこには決して自分の望むものなどありはしないのに。
彼と出会ってから初めて、塔子は彼に対して申し訳ないと思った。彼のモラハラに苦しめられた長い年月も、そもそも種を蒔いていたのは、塔子自身だったのだ。彼の非人道的な振る舞いは到底許されるものではなかったが、事の始まりは自分の再現願望から来ていたのだ。塔子も充分に苦しんだが、彼の方も彼なりに苦しんでいたはずだ。

彼は、私の父の代わりをしなくてもよい存在である。彼は彼であって、他の何者でもない。塔子はそれを頭に叩き込んだ。自分を内観する旅は終わりを迎え、塔子は新たにまっさらな気持ちで彼と向き合う事にした。脆く、子供のように無責任で、悪気なく人を傷付け、傷付けずにはいられないという、父にそっくりな性質を持つ彼と。


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vol.117 目覚め 6

日比谷花壇_母の日ギフト


一体、自分は何に対して悩み、悲しんでいたのか。そして何に対して怒り、憤りを感じていたのか。何を辛いと感じていたのか。漠然とした灰色の霧は消え去り、自分が立っていた状況が理解出来た今、後に残ったのは自分自身の感情だった。それを突き詰めて考えてみれば、後に残されたその感情とも真摯に向き合える。塔子はそう思った。

結局のところ、自分はただ他人を羨んでいただけなのかもしれない。隣りの芝生を青く感じていただけなのかもしれない。誰にだって何かしらの、当事者にしかわからない苦しみの一つや二つは必ずあるものだ。誰もがお花畑を呑気に駆け回っているわけではない。投げつけられた石のつぶてを大ごとに取るか、あぁ、この程度の怪我でよかったと捉えるか、それだけの違いなのだ。要は本人の気持ち次第なのだ。過去は決して変えられない。事実は事実として、ちゃんとそこにある。ただ、そこに引きずり込まれるか、その状況を認めた上でそこからどう立ち上がっていくか。その違いだけなのだ。

自分にとって、要介護5の母の介護は、ひどく重荷だった。終わりの見えない苦行をひたすら課せられたようなものだった。ただ、それは時期的なものもあって、もしかして自分がもっと歳を取ってから始まったものならば、それはそれほど辛く感じなかったかもしれない。自分にとって根本的な苦しみの原因は、母の介護云々ではなく、おそらくそれが始まった時期が大きな原因だったのだ。要介護5の母を介護する、という看板があまりにも大きすぎて見えていなかったが、苦しみの本当の原因はそこではなく、そこでは決してなく、ただただ時期が悪かっただけの事なのだ。
塔子が幼い頃から、母は病弱で入退院を繰り返していた。それは母が離婚した後も、塔子が結婚して子供を生んだ後も続いた。脳梗塞で倒れ、後遺症で半身不随になったのは母が50代の頃で、塔子の一人目の子供が幼稚園に入園し、二人目の子供がやっとよちよち歩き始めた頃だった。楽しくも振り回されながら、悩んだり喜びを感じながら子育てをする時期だった。夫の協力を得られない育児。夫とは分かり合うどころか、意思の疎通すらなかった。周りのママ友達のように息抜きや子供を預けるために実家には帰れない孤軍奮闘の育児。そこに更に被さってきた母の介護だった。サポートを得られないどころか、子供二人と寝たきりの母を、助けてばかりの毎日だった。私はこれだけした、あれもやった、これもやった、と訴える場所も暇ももちろんなかった。それらをまるで武勇伝のように語る事すら許されなかった。頭痛で寝ていれば必ず彼の皮肉が飛んでくるので、痛くない振りをしていつも笑っていなければならなかった。高熱にうなされていても、ひとたび母の病院から電話が入れば、それが他愛のない用事でも、すぐさま飛んで行かなければならなかった。八方塞がりの中、自転車の前かごに母のオムツ、鞄には子供のオムツ、そして後ろに息子を乗せて、ひたすらペダルを漕ぐ人生だった。自分の感情など、完全に麻痺していた。いつも置いてきぼりにして捨ててきた。そこに視点を当てるとあまりに惨めなので、何も感じない振りを続けた。逆に、うまく立ち回れない自分を責める毎日だった。

これが、もし時期が違っていたなら。子供達がもう少し大きく、せめて二人とも小学校に入っていた時期ならば、これほど時間に追われる事はなかったかもしれない。もっと子供と向き合い、たとえ帰れる実家がなくても子育てを楽しめたかもしれない。子供が大きくなって手が掛からなくなってから、母の介護が始まっていたなら。自分はもっと母と向き合えたかもしれない。片手間な育児と片手間な介護に挟まれ、自分を責めて苦しむ事もなかったかもしれない。世間一般と同じように、もしくは老々介護のように時間と自分に余裕がある中での介護だったなら、これほどまでに辛くはなかったかもしれない。自分の悩みの根本は、ここだった。時期が悪かったのだ。世間一般に始まる介護の時期からは大きくズレていた事が原因だったのだ。二十年、もしくは三十年も早く始まった介護生活だった。50代の母親は、まだまだ元気で娘の子育てを応援するはずの年齢だった。普通の人のように、介護が必要になるのは、70、80代になってからであってほしかった。介護人である自分がまだ20、30代の頃であってはならなかった。せめて子育てがひと段落した40代以降であったなら、理不尽に思い悩む事もなかっただろう。子育てに協力的なママ友の母親を見て、心が悲鳴をあげるほどズタズタに切り裂かれる事もなかっただろう。

ただ、ひたすら時期が悪かった。それだけの事なのだ。長い牢獄の時期も、いつかは終わる。永遠の命なんてないのだから、全ての者に等しく終わりは必ずやってくる。そして、そこから得るものもある。自分の辛さの根本的原因をハッキリと突き詰めた塔子は、自分の努力次第で得られるものだけに力を注ぎ、与えられないものを悲観したり欲しがったりするのはもう止めようと思った。

義父から受けた心無い言葉を噛みしめ、充分に味わった後に塔子が出した結論はそれに尽きた。自分の努力で得られるものしか欲してはならない、という結論だった。優しさや愛情、親切心や温かさ。そして思いやり。相手側に備わっていないそれらの事柄を、くれとねだるのは無意味な事だとわかった。義父が嫌味で言ったのか、心底真実を語っているのかは知る由もないが、どちらにしても向こうは塔子に対して愛情も信頼も1ミリも持ち合わせておらず、ただただ保身しか念頭にない事はよくわかった。塔子にはそれを指摘する事も、それを改心させる事も出来るわけがないのだ。人を変えるなど、そもそも出来るわけがないのだ。ならば自分が変わろう、と塔子は思った。手に入らないものをないものねだりするのは止そう。物欲しそうに指をくわえて、いつかあの人は変わるかもしれない、いつかあの人は私を受け入れてくれるかもしれない、と期待をして生きるのは止めようと思った。これからの自分に必要なものは、自分の努力次第で得られるものだけだ。相手側に期待するのは依存しているのと同じなのだから。求めても叶えられない夢ならば、いっそのこと最初から存在しないものとして割り切るしかない。

納得するまで、暫く時間が掛かった。何故? と不思議に思う堂々巡りから抜け出すのに時間が掛かったのだ。塔子は本当に不思議で仕方がなかった。義父や義母の仕打ちが理解出来なかった。頭痛は相変わらず果てしなく塔子を苦しめ、またもや耳に不調が現れた。耳痛はどんどん酷くなり、顔の右半分がビリビリと痛んだ。熱は上がったり下がったりを繰り返し、挙句の果てにはまるで世界地図を広げたような蕁麻疹が全身を隈なく襲った。鬱になる状況を許されない環境下にある者は、時として身体にその症状が現れるという。あぁ、自分もおそらくそうなんだろうな、と塔子はまるで他人事のように自分を客観視した。長かった介護生活が終わり、終わったと同時に別居が始まり、相手側の親は保身しかなく、自分には肉親も味方もいない……。そうだ、自分は昔から打たれ強かった。鉄で出来ているかのように、心だけは強かった。心に向かうはずのものが何も感じないのなら、身体に向かうしかこの憤りも悲しみも、声を上げる術がなかったのかもしれない。聞きたくなかった言葉は耳痛に、体中を巡る怒りは血にも入り込み血管という血管全てを浮腫ませた。ただ、それだけ。それだけの事なのだ。何も恐れる事はない。何も悲観する事ではない。ただ、私は怒っているのだ。ただただ悲しんでいるだけ、それだけなのだ。得意になる必要もなく、哀れになる必要もなく、ただ認め受け入れ、果てしなく続く日常を淡々とこなすのだ。

症状も気持ちも一進一退だった。前向きに物事を捉えられる日もあれば、獰猛なほどの自責の念に囚われる日もあった。髪をかきむしるほどの憎しみと孤独の狭間で、なかなか消えてはなくならない被害者意識にのたうち回った。自己憐憫しか癒しを得られない虚しい日もあった。頭では理解出来ているのに、心と身体はそれに追いついていかない日もあった。バラバラと髪は抜け落ち、大きな禿がいくつも出来た。もう無理かもしれない、自分にはもう立ち上がる気力が残っていないのかもしれないと思う日もあった。死に場所を必死に考える日もあった。全てはいきなり好転するはずはなかった。あぁ、どうして義父はいつもいつも私を蔑み、傷ついたり恥ずかしく思ったり呆然としている私を見て喜んでいたのだろう? 何故あんなに人は卑しくなれるのだろう? どこまで人は自分を満たすためだけに卑劣になれるのだろう? そこに果てはないのだろうか? 何故親が死んだ、その瞬間から責められなければならなかったのだろう? 慰めの言葉一つ掛けてもらえず、悪い嫁に引っかかった我が子が可哀想だ、と責められなければならなかったのだろう? 私には庇ってくれる親すらいない事を知っているのに、何故そんな発言が出来たのだろう? 自分の娘より遥かに若い義理の娘である私が、一人で親を苦労して介護していたのを知っているのに? 40にもなった自分の娘は優雅にまだまだ娘の立場を満喫しているのに? 憎しみは竜巻のように渦を巻き、義父や義母や義姉を巻き上げ、吹き飛ばした。そうかと思えば翌日には、怒りに身を任せた自分を恥じ、自責の念に駆られるのだ。

生きている者を許すのは、死んだ者を許すより遥かに難しい。塔子はそう思った。それでも、きっと乗り越えられる。これまでも全部乗り越えてきたではないか。乗り越えられない壁は、時間が上手に解決してくれたじゃないか。大丈夫。きっと、大丈夫。この怒りも悲しみも一過性のものであって、永遠に続くわけじゃない。身体に現れた数々の症状も、心が落ち着けばいつかは消えてなくなるだろう。大袈裟に騒ぐ事ではない。大丈夫。きっと、大丈夫だ。

いつかは、自分も歳をとる。中年になり、老人になる。いつかは全てが思い出になる。無様だった過去も良い記憶も、灰となり消えていく。一生懸命に生きた証さえも、一筋の煙となって跡形もなく消滅する。それまでの長いような短い期間、これからは出来るだけ楽しく生きよう、と搭子は思った。自分の思うように生きよう。今までやりたくても時間がなく出来なかった事、誰かの視線や世間体ばかりを気にして出来なかった事。それらを全部やっていこう。自分で自分の首を絞めるのはもう止めにして、代わりに自分で自分を幸せにしてあげよう。子供達が二人とも小学生になった今なら、母の介護が終わった今なら、それが許されるはずだ。母や彼や子供のために犠牲にしてきた自分の時間を取り戻すのだ。その考えは搭子をワクワクさせた。苦しみからようやく解放された搭子は、生まれて初めて沸き上がってくる楽しい感情に目も眩むほどだった。喜んでも、いいのだ。楽しくしても、いいのだ。誰に非難されようと、後ろ指を指されようと、気にしなければいいのだ。たとえ彼が搭子の前向きな生き方を恐れ、阻止したり嫌がらせをしたりしても、自分はもう決して諦めない。自分の人生は誰かの顔色を伺う事ではない。相手がそれを理解しないのであれば、自分は自分の道をいくだけだ。これから、自分は幸せになる。幸せになるのだ。搭子は未来をそう決定した。


「目覚め」1~5


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vol.116 母の思い出 8

絡まった糸の先に着いていたのは、父だった。
それは大きな諦めを持って、なかったものとして葬った過去の亡霊だった。あの人の事を考えるのは、馬鹿らしい。思い出すのも、煩わしい。心が汚れていくような気さえする。それは、何故だったのだろう? 一体、いつからそうなってしまったのか。

母と別れ、私達家族を捨て去り、夫としての、そして父としての責任をいとも簡単に放棄した頃からか? 否、違う。それはおそらくもっともっと以前からあったものだ。単身赴任で出て行った頃からだろうか? 違う。母が自分の祖母を私達の自宅に引き取った頃からか? 違う。弟の結婚式の当日に、私を騙して付き合っている女の元へ連れて行った頃からだろうか? きっと、違う。それは私が幼い頃から、記憶にさえ残っていないくらい遠い昔から、密かに存在していたのではなかろうか。

平和な食卓を囲む笑顔の裏で。ドライブのクラウンの中で。手を繋いで出かける近所の公園の中で。右に左に行き交うバドミントンのシャトルの向こう側で。
私はあの人を愛していたのだろうか? 私はあの人を絶対的に信頼していたのだろうか? 私はあの人に本当はどういった感情を持っていたのだろうか? 塔子は自問自答してみる。

思い出すのは、母の泣き顔だけで、あの人の顔の表情は見えない。平穏無事に見える日々の中で、漆黒の闇は確かにじっと息を潜めていた。家族四人で暮らしていても、まるでそれは悪魔の同居人のように傍におり、面を被って誰からも気付かれずにいた。表だって、それが暴れまわる事はない。わかりやすく現れる悪魔ではなかった。それは常識人として、良き市民として、理想的な家庭人としての隙間、隙間に見え隠れする悪魔だった。それを知るものはどこにもいない。本人自身も気付いてはいなかった。母もきっとわかってはいなかっただろう。大人達がわからないその存在を、幼かった塔子が知る由もない。だが、今ならわかる。その悪魔の正体こそ、モラルハラスメントだったのだ。

いつも、違和感があった。何を話していても、不思議な違和感があったのだ。言葉の隅に、洩らしたため息に、ふとした態度に、その厚かましさ、その残忍さ、その無責任さを垣間見るのだ。しかしそれは巧妙な悪魔で、そう感じるこちら側に罪悪感が生じるように仕掛けてあるのだ。その手口はまるで澄んだ水のような無垢な清らかさで、悪気もなくこちら側の正常さを狂わせるようになっている。

ここでも、連鎖されていたのだ。そんな父の子として育ち、全く同じ資質の男に引っ掛かり、結婚した。男とはそういったもの、という間違った常識がインプットされていたからだ。拭えないほどに染みついていたからだ。その世界しか知らない井の中の蛙だったからだ。母はそのような悪魔に対し、一体何を感じていたのだろう。おそらく塔子と同じように、奇妙な違和感の中で暮らしていたに違いない。積もり積もった違和感はいつしかストレスとなり、はけ口はいつも弱い者へと向かっていたはずだ。父から母へ放たれた黒い煙は、今度は母から塔子へと向かった。それらはごく自然な流れとして、当然のように水面下で行われていた。投げた者も、受け取った者も、無意識の行いであった。誰もその仕組みに気付いてはいなかった。矛先を向ける知恵もなかった塔子だけが、その煤けた煙を一身に浴び、自分が悪いのだという罪悪感のみが溜まっていった。恵まれた環境の中、疑う事すらせず、自己否定という灰が降り積もっていったのだ。

悪魔の連鎖は単純な仕組みだったのだ。そこから逃れたとしても、また新たな悪魔が出現するようになっている。笑顔の影で、優しさの裏で、それは手ぐすねを引いて待ち構えている。父も母も、いつしか塔子の人生から泡が弾けるように消えてしまったが、新たな悪魔はきちんと補充されていたのだ。その存在に、その仕組みに気付いた今、自分はこれからどう生きていくのか。何を捨て、何を選び取り、どの道にハンドルを切ればいいのか。あるいは何も捨てず、何も選び取らず、どの道に進むのか他人任せ運任せにするのか。可能性は無限にある、と塔子は感じた。重いしがらみを脱いで新たなステージへ旅立つのも自分。膝を抱えて縮こまり、悲劇のヒロインだった過去を反芻し続けるのも自分。どの未来を選んでも、自分は自分なのだ。自分は母とは違うのだ。

母は、悪魔に負けたのだ。離婚して、そこから逃れた後も、決して幸せではなかった。一度悪魔にロックオンされると、たとえ逃げ延びても、新たな環境に身を投じても、それはひたひたと背後から忍び寄る。一見わからないが手を変え品を変え、それは必ず現れる。そしてそれに飲み込まる。完全なまでににそれと一体化する。同化して、それそのものになる。半身不随になり、寝たきりの状態で、「私の事、笑えばいいわ。いつかあなたもこうなるのよ」、と悪魔は囁いた。その言葉は呪いとなり、確実に塔子に爪痕を残した。母は死ぬまで自己憐憫から抜け出せなかった。過ぎ去った過去に何の思い入れもないのに、ひたすら受けた酷いダメージから抜け出せずにいた。それはまるで過去の栄光にしがみつく愚か者のように、被害者意識にしがみついたままだった。悪魔は何も外からやってくるだけの外的要因ではない。自らそれを育み生み出す事も出来るのだ。そしてそれとは気付かずにまるで蜘蛛の子を散らすがごとく辺り一面に拡散していくのだ。新たな被害者を、そして被害者意識の芽生えを求めて。悪魔の本望は、犠牲者を出す事よりも、本当はその後の意識を食い散らす事にこそあるのだから。

自分は母とは違う、と塔子は思った。今はまだそこから抜け出せてはいない。だが、この悪魔の増殖の仕組み、そしてそれに打ち勝つ唯一の方法に気付いた気がする。反面教師として、母は必要不可欠な存在だった。ここを通過しなければ、今も尚気付かずにもがいていたかもしれない。父を母を彼を、そして舅や姑を、更に社会や政治や見ず知らずの赤の他人さえ恨んでいたに違いない。否、それがあってもいい。それが通過点として存在するのなら、そういう時期があっても一向に構わないのだ。問題は、その後の自分の意識だ。被害者である自分、という確固とした鉄の鎧を外せるかどうかだ。これを外さない限り、永遠に呪いは解けない。何故なら、そこには悪臭が漂うからだ。自己否定。自己憐憫。そして被害者意識。それらには悪魔にしかわからない独特の匂いが伴っているからだ。悪魔はその匂いが大好きで、どこにいても吸い寄せられる。そしていつしか骨の髄までしゃぶられるのだ。

それは単純な仕組みだ。しかし、理解する事と実行する事はまた別物である。塔子は膝を抱えたまま、じっと深く内省する。こうしていても何も事態は変わらなかったが、傷口を広げて膿を出し切る期間が必要だった。自分が傷付いていた事さえなかった事にしてきた人生のつけを払う時期だった。そうして全てを払い終えた後、搭子は自分が変わらなければと自然とそう思えた。父を許せるか、母を許せるか。そういった感情は越えていた。許さなくてもいい。許せない自分でもいい。ただ、それは仕方のなかった過去として、あるがままを受け入れた。これからの新しい自分にとって、判断はどうでもいいような気がした。親も自分も、ジャッジする必要はないような気がしたのだ。自己批判、他者批判。それらは塔子にはもう何の関係もない代物だった。他人に惑わされず、ただ自分を信じて生きる。四角四面に生きるのではなく、もっと柔軟に、強かに。たとえそれは間違っていると他者から指摘されたとしても、それさえも笑い飛ばし、ねじ伏せてしまうくらいに。信じていた友から受けたモラハラによる二次被害さえ、もうどうでもよい過去として振り切った。掴んで放さないのは幸福だけでいいのであって、後は自分にとって不必要なものとして捨てて行くだけだ。捕らわれないように。悪魔の餌食にならないように。自ら悪魔を生み出さないように。

バスに揺られ、一人母の元へと向かう。永久に眠るその場所で、塔子は誓いを立てるでもなく、花を供えただ手を合わせた。川のせせらぎの心地良い音が微かに聞こえる。合掌する塔子の近くで、遠くで、鳥達のさえずりが聞こえる。さようなら、お母さん。さようなら、かわいそうだった自分。


「母の思い出」全8話・完


「母の思い出」シリーズ



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vol.115 母の思い出 7

母の死。そして別居。人生において大きな節目となるこの二つの出来事が自分の身に降りかかった時から、塔子は自分自身を深く考えるというこれまでに一度もしてこなかった事をするようになった。何故、この世にモラルハラスメントが存在するのか。何故、自分は獲物として選ばれたのか。ターゲットとして選ばれた自分のどこに非があったのか。これまでの30数年の長いような短いような人生を、掘り起こしてはそれを上から下から斜めから観察し、必要なものはまた土に返し、要らないものは切り離して捨て去った。なかった事にする必要はない。ただ、不必要なものとして認識する作業だった。良い事も悪い事も全て繋がっていて、まるで芋のようにズルズルと一緒に掘り起こされるのだが、それを選別していくような作業だった。要らないものまで後生大事に抱え込む必要はない。それは確かに記憶としてあった。忘れる事はない。それでも、それはもう腐っているのだ。異臭を放ち、土の中で生き続けているのだ。その腐った芋のような記憶を切り捨て、ゴミ箱に捨てる。それはゴミ箱の中で静かに眠ったまま存在する。要らないものとして、今後も存在するのだ。しかし、今の自分には何の影響も及ぼさないものとして認識される。それはただのゴミなのだから。

塔子はこれまでに二度、実家に帰りたいと思った事があった。実家に帰りたいというより、その場から逃げ出したいと思った事があった。しかし、その望みは二回とも叶わなかった。
一度目は、結婚間近の時だった。彼の言動や行いに疑問を抱いていた時だ。既に知人や友人には結婚式の招待状を出し終えていた。後には引けない状態である事はわかっていた。ダメで元々、塔子は母に電話を掛けた。結婚を取りやめたい事、出来るなら一人暮らしをやめて実家に戻りたい事、塔子は大人になってから初めての我儘を口にした。言葉をポツポツと繋ぎながら、口の中は罪悪感という苦い味でいっぱいだった。何故、こんなに涙が出るのだろう。何故、こんな愚かな泣き言を口にしているのだろう。案の定、塔子の願いは却下された。わかりきっていた事だ。それでも塔子は深く深く傷ついた。仕事を辞めたら母への送金が出来なくなる。決まっていた結婚を取りやめてしまったら、世間体が悪い。絶対にダメだ、と母は言った。絶対に帰って来てはダメだ、と母は言った。塔子は諦めて電話を切った。自分の存在価値がわからなくなった。どこにも逃げ場がないという事が、痛いほどわかっただけだった。自分には帰る家がないという事、そして受け止めてくれる人が誰もいない事、存在自体誰にも許されていない事がわかっただけであった。
二度目は最初の子供を産んだ後だった。わかっていた事だが、彼との結婚生活は過酷なものだった。彼は塔子のすることなすこと、全てが気に入らない人だった。出来る事には何も触れないが、出来ない事には鬼の首を取ったように猛烈に批判した。朝から晩まで塔子をジャッジし続けた。お前のここがダメだ、お前のここが嫌いだ、お前のここが出来ていない、俺がこんなに苦労しているのに、お前はいつも気楽なものだ……。何の苦労もした事がない彼から放たれる頓珍漢な暴言に、塔子は必死で耐え続けた。彼から言われた注意事項はいつも守り、彼から言われた暴言の数々は全て聞き流し、彼から言われた自分のダメなところを必死に改善した。それでも彼の暴言は収まらず、事態は何も変わらなかった。今となっては当たり前の話で、彼はそもそも塔子が何をしようと、たとえ善行を行っていたとしても、暴言を吐く事自体に意味があったのだから何も変わるはずがないのだ。塔子が天使だろうが悪魔だろうが、彼にはどうだってよかったのだ。ただ、人を罵倒したり馬鹿にしたりする事、その行為だけに意味があったのだから。若く、何もわかっていなかった塔子にとって、それは耐え難い日々だった。そんなある日、塔子は高熱を出した。乳飲み子を抱えた身での高熱は、塔子をまたもや愚かにした。彼が暇そうにゴロゴロとテレビを観ながら転がっている中、40度以上の熱を出しながら子供の世話、彼の食事の支度などをしていると情けなくて涙が溢れた。塔子は咄嗟に受話器に手を伸ばし、母へ助けを求めた。辛抱が足りない事は重々承知していたが、どうにもならなかった。母に事情を説明すると、母は心配はおろか、そんな下らない事くらいで電話を掛けてくるな、と言った。母にとっては嫁いだ娘が苦労していようといまいと、どうだってよかったのだ。塔子は諦めて受話器を置いた。傷心の塔子に待っていたのは、彼の嫌味だった。何故、実家に電話をするのか。そんな事をするとまるで俺が頼りない夫みたいじゃないか。嫌味は長々と続いた。ただでさえ傷ついているのに、まるでそこを狙ってわざと石を投げつけるかのような彼の言動に、塔子は二重に傷ついた。誰も、当てにはならない。もう二度と、泣き言など言わないでおこう。決してそれを口に出してはならないのだ。余計に傷つくだけなのだから。

母が死んだ今となっては、何故母が自分を助けてはくれなかったのか、その真意はわからないままだ。あるいは生きていたところで、人の思惑などわかりようのない事なのかもしれない。あの時、塔子は崖っぷちにいたのだ。そんな状況、崖でもなんでもない、甘い、甘い、と他人様から言われようが、自分にとっては真実崖っぷちの状態だったのだ。本当に困った時、辛い時、助けてくれるのは身内だと信じていたが、実際はそうではなかった。塔子は身内を助けるばかりで、誰からも助けてはもらえないのだった。塔子にはそれが不思議でしようがなかった。何故、自分はいつも人に救いの手を差し伸べるのを厭わないのに、事実ずっとそうしてきたのに、自分は蔑ろにされるのであろう? 何故、同じ年頃の他の人達は親の面倒を看ていないのにもかかわらず、いつも可愛がられ甘やかされ、困った時には助けてもらえるのだろう? 塔子にはそれが不思議でしかたがなかった。あまりに不平等な状況に、疑問を持つのだった。答えの出ない違和感の中で、育児をし、介護をし、それがモラルハラスメントとは知らずに彼の言動や振る舞いに右往左往していた。闇の中を無我夢中で走った。複雑に絡まりあう糸に雁字搦めになりながら、何故なのか理由もわからずにただ闇雲に手を振り回しそこから逃れようとしていた。もがけばもがくほど糸はきつく絡まり、全く身動きが取れなくなった。やがてその状況が当たり前になり、塔子は諦めを知った。雁字搦めのまま、日常をこなすのだった。

絡まっていた糸の一つがプツン、と不意に切れた。外れたのではなく、複雑に絡まっていた中の一つが急に切れただけだった。たとえ早すぎる寿命であったとしても、塔子はたいして悲しみを感じず、逆にふうっと息が楽に出来るようになったような気さえした。手探りでその断片を抜いてしまうと、簡単に外れそうな糸を一つ見つけた。塔子は自らそれを抜こうとした。その糸は自分の力で容易く抜ける事に気付いた。ぎちぎちに固まっているそれに手を伸ばし、少しずつ空間を作って緩めた。それは一気に抜こうとすれば簡単に抜けるものだったが、塔子は緩めるだけにして完全には切り離さなかった。この糸と別れようと思えばいつでも自分の力で抜いて捨てられる事がわかったからだ。巻きついていた時には散々塔子を苦しめたその糸は、緩めてみればヒョロヒョロと頼りなく脆い糸である事がわかった。こんなちっぽけで薄汚れた糸がきつく自分を縛っていたと知ると、笑いさえ込み上げた。情けなく頼りないその糸は、今後家族を守る長として綱に成長していくのだろうか? 塔子はそれを垂らしたまま、息がしやすくなった状況で余裕を持って観察するのだった。

自分の力でその糸を抜ける事に気付いたのは、無数にある糸の内の一本が不意に切れたからだった。あの糸が切れなければ、事はこう簡単に進まなかっただろう。そう思うと、あの糸が切れた事にも意味があるのだ。あの一本の糸が切れた事によって、自分がどれだけ絡まっていたかを知る事が出来た上、自分の力で抜ける糸も中には存在する事を知ったのだ。母の死は、無駄ではなかった。塔子に気付きを、そして立ち上がる勇気を与えてくれた。自分に何が足りなかったかを教えてくれた。感謝の気持ちすら生まれた。
無数にある見えない糸は、まだ複雑に絡まっている。その一つ一つが一体何に繋がっているのか。途切れてしまった母糸。切ろうと思えば簡単に切ってしまえる脆い夫婦の糸。まだ確かに強く繋がっている娘と息子の糸。舅や姑に繋がっている糸。姉弟の糸。友達の糸やご近所さんとの糸。取引先の糸。がっちりと掴んで離さなかった病院関係者の糸は、母の死によって同時に切れてしまったが。
手繰り寄せてはその先に何があるかを確認しながら、塔子は決して辿り着けない、行き先の見えない糸がその中に存在する事を感じた。自分の中央に、かなり太いが見えない糸が大きな場所を取ってグルグルに絡んでいる事がわかったのだ。一体、これは何だろう? 一体、これはどこに繋がっているというのか。それを確かめるのは、なんだか怖い。そこに全ての答えがあるような気がして、そしてそこには何の答えもありはしない気がして、探るその手が躊躇するのだ。それは、一個人に繋がっているのか、それとも相対的な観念として漠然とそこにあり、それに繋がっているのか。最初は一個人だったが、もやっとした集合体となった巨大に膨らみ上がった観念に飲み込まれているのか。塔子はその糸の先がどこに繋がっているのか確かめようと手を伸ばした。本当は、心のどこかで答えを知っている気がする。ここを乗り越えなければ、全ての糸は解けない事を知っている気がする。灰色の渦の中からズルっと出て来たのは、父だった。


「母の思い出」シリーズ



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vol.114 目覚め 5

平日の午後、義理の両親の元へ向かった。子供達が小学校へ行っている間に穏便に事を済ませるためだった。彼もその時間には一旦仕事を抜けて戻って来た。先方へ向かう道中、塔子は意外にも自分が緊張していない事を感じていた。不思議だ。どちらかというと神経質で緊張する質なのに、何故か塔子は冷静で、それでいて炎が熱く燃え盛っているような状態だった。頭の中はクールに冴えているのだが、腹の底では揺るぎない何かがでんと居座っているようなのだ。肝が据わるとは、こういう事なのか。塔子は何も怖くなかった。舅と姑が暮らす敵地へと乗り出すのに、何一つ恐れる気持ちがなかった。彼が自分のサイドに立ってはくれないであろう事も、彼という存在自体も、もう何も塔子を脅かす事はなかった。全てを失って、これ以上失うものがない事を深く深く痛感したからであろうか。自分という存在が、そもそも最初から空っぽであったと認識したからであろうか。それとも、私は密かにこの好機を心のどこかで待ち望んでいたのであろうか。イエスマンの如く、いつも本音を隠して仮面を被り、愛想笑いを浮かべていた自分と、金輪際決別出来るのだから。

思い返してみれば、自分は何をあれほど恐れて生きていたのだろう。恐れるに値しないものを、日々ビクビクとしながら生きていたのだ。深く考えてみた事はなかったが、かなり幼い頃から塔子は死を全く恐れる事はなかった。自己愛が育たないまま三十を過ぎてしまった塔子にとって、死は恐怖の対象ではなかった。おそらく殆どの人が死を恐れているのは、そこには当たり前のように自己愛が存在するからであろう。自分が好きで、自分という存在がなくなってしまう事を恐れているからなのだろう。塔子は自分が好きではなかったし、自分という存在に是が非でもしがみつきたい気持ちもさらさらなかった。自己愛を確立している者は、おそらく他者への愛という次のステップも、難なくクリアしている事だろう。そもそも塔子は第一段階でつまずいてしまったのだから、どう頑張ってもそこまで這い上がれるわけがない。それを普通の人々みたいに真似てやってみようとするものだから、場違いで間違いだらけになってしまっていたのだ。

自己愛が育たなかったのはもちろん環境のせいであるが、それを今さら責めたところで、どうにもなるまい。もう自分は三十を越えた大人なのだし、親のせいにしたところでそれが一体何になろう? 時間は戻せないのだ。父には新しい家庭があり、塔子の事などとうの昔に記憶から捨て去ったに違いない。たとえ心の中で時々塔子の存在を思い出す事があったとしても、それは父の中では終わってしまっている過去なのだ。塔子は父にとって過去なのだ。悲しいかな、塔子イコール完結した過去の素材なのだ。母には散々苦労を掛けさせられた。病弱で我儘な母に代わって、塔子が世帯主として働き、母の入院代、そして弟の大学費用を稼いだ。どれだけ尽くしても、母はまだ足りない、まだ足りない、と言って塔子の時間もお金も自尊心も全てを食いつくし、それでもまだ何かを差し出せと飢えていた。大人になった今ならわかる。きっと母はもっと全く別のものを欲しがっていたに違いない。塔子が唯一持っていなくて差し出せなかった愛情そのものを。

死さえも恐れない自分が無意識に恐れていたもの。その存在のために生きにくくさせていたもの。最近ようやく気付いたそれは、ちっぽけで馬鹿馬鹿しいほど滑稽な感情だった。自分はただひたすら恥を恐れていたのだ。世間体。他人からどう自分が思われているのか。知らない事をさも知っているかのように振舞う。自分が放った何気ない一言で相手が傷付かないよう過度の注意を払う。それらは言うならば全て恥から来ているのだ。両親の不仲を世間に知られたくない。両親の離婚を出来るだけ誰にも気付かせないようにしたい。都落ちしてから家計が火の車になり、生活費から弟の学費まで一人で捻出している事を友達に知られたくない。自分の結婚が失敗であった事を世間様に気付かれたくない。十代、二十代の若い頃から親の介護をしている事を知られたくない。母の入院先の看護師達に意地悪をされている事を知られたくない。自分が惨めな存在である事を誰にも知られたくない。ひたすら隠し通し、自分が幸せな人間であると、愛されている存在であると人様から思われたい。苦労知らずの普通の愛らしいどこにでもいる女の子だと思わせたい。
塔子が死よりも恐れていたもの、それは恥、という下らない感情であった。恥を掻くくらいなら、死んだ方がマシと無意識に思っていたのだ。周りの友人達が当たり前のように持っている親や装飾品や愛情を、持っていないと知られる事が死よりも恐ろしかったのだ。可哀想だと見下されるのは、死の恐怖をも遥かに上回り、また死よりも深い屈辱だったのだ。

自分の中の鬱屈としたそういった感情に気付いた事で、塔子は長い眠りから目覚めたような気分だった。自分の中の汚い自分を認め、それを隠すでもなく誤魔化すでもなく、横にしたり裏にひっくり返したりとじっくり眺めているうちに、それが恐れるに値しないものである事が段々とわかってきた。世間体や恥など、本当にちっぽけなものであるとようやく納得したのだ。機能不全家族に育ち、自分でも気付かないうちに巣くっていたその感情は、塔子を守る堅い鎧の役割をしていたのだ。そしていつしかその鎧そのものが重くなり、塔子自身にずっしりと覆い被さっていたのだ。それを着けなくても生きていける、何も恥じなくていい。それに気付いた時から、塔子の中で何かが変わったのだった。何をも恐れる事はない。何ももう自分を脅かしたりはしない。ただ、そうして恐れを克服した塔子であったが、悲しみや孤独、自己憐憫からはまだ抜け出せないでいた。

夫の実家に到着すると、義理の両親が出迎えてくれた。塔子は時間を作ってもらった事に感謝し、四人で揃って席に着いた。女二人は妙に落ち着き、互いに笑顔さえ見せていたが、残りの二人はどこか落ち着きなく、眉間に皺を寄せたままそわそわしていた。塔子はまず、葬式の日に起こった別居騒動について詫びた。詫びた後、何故そういう事になったのか経緯を話した。自分が全て一人で手配して決めた事。一切、彼の手を煩わせはしなかった事。手を煩わすどころか、金銭的な面においても、介護中から葬儀まで一円も彼の負担にはならなかった事。精神面でも助けになってもらっていたのは弟と弟の奥さんの二人であって、彼の支えは一切受けなかった事。全てをあからさまに、正直に話した。彼らは神妙な顔をして塔子の言葉を聞いていた。
「……というわけで、私はお二人に責められるような事をした覚えは一切ございません。若い身空でよくやったな、お疲れ様、と労えとは言いませんが、かと言って私のいないところで、しかも子供の前で陰険な事を言われる筋合いもございません」
塔子がそう締めくくると、義母は不思議そうな顔をした。
「私達が何を言ったというの?」
「言いましたよ。覚えてらっしゃらないようですが、子供達の目の前で私を非難したんですよ。あの子は悪い人間だとか、勝手に私達が買ってやった家に住んでいるとか。全部子供達から聞きましたよ」
「私、そんな事、言ってないわ!」
「じゃあ、子供達二人が嘘を言っているのでしょうね。おかしいですね」
塔子はクスっと笑って、義父と義母を見据えた。義父はスッと目を逸らし、自分には全く関係のない話に巻き込まれている人のような表情をしていた。義母は必死に笑顔を振りまき、気のせい! 全部塔子ちゃんの気のせい! とパタパタと手を振り回した。
「魚、焦がしたって、言ってましたよ」
塔子はにっこりと笑みを浮かべながら、姑の顔を覗き込んだ。
「ちょうど夕飯時で、おばあちゃんはご飯の支度をしていた。その時に私の悪口合戦が始まり、興奮して止まらなくなったおばあちゃんは、魚を焼いている事を忘れてしまった。思い出して取り出すと、既にそれは焦げていた……と聞きましたけど、違いますか? それとも、子供達二人が同時に見た夢ですか?」
姑はハッとした顔になり、もう誤魔化せないと観念したのか、違うのよー、あれはねぇ……と何やらごにょごにょと埒のあかない言葉を発し、最後にそんな事、私、言ったかしらぁ? と呟いた。
「言ったよ。確かに、言った」
それまでずっと無言だった義父が、不意に話し出した。
「お前は、ずっと塔子ちゃんの文句を言っていたよ。そして、魚を焼いている最中なのも忘れ、焦がしてしまった」
舅はそういうと塔子に向き直り、ソファの上で両膝をグッと握り締めながら、頭を下げた。
「すまなかった、塔子ちゃん。許してくれ。悪いのは全部うちの母さんだから」
「……わかってもらえれば、それでいいです。こちらこそお騒がせしました」
塔子も義理の親二人に頭を下げた。それまで固まったまま事の成り行きを傍観していた彼が、急にニコニコと笑顔になった。
「よかった、よかった! これで一件落着! さぁ、帰ろう!」
事が上手く運び、ほっとした彼は、浮足立ったまま玄関へと向かって車に乗りこんだ。塔子はゆっくりとその後を追った。玄関で靴を履き、義理の両親に向かい合った。
「今日はお時間を頂き、ありがとうございました」
塔子がお辞儀すると、義母は満面の笑みでまたいらっしゃいね、と言った。義父は自分の息子が運転席に座っている事を身を乗り出して確かめた後、塔子を眺め、深い溜め息をついた。
「……本当に。我が家の子供達は可哀想だよ。どうして揃いも揃って結婚相手に恵まれなかったんだろうなぁ……」
「えっ……?」
「本当に。うちの子供達は可哀想だなぁ……」
義父は塔子をじっと眺めながら、独り言のようにそう呟き、スッと奥へと消えて行った。

帰りの道中、彼は機嫌がよく、終始ニコニコと笑顔だった。打って変わって、塔子は終始無言だった。あれは、一体、何だったのか? 舅のあの言葉は、一体何だったのか? 何故、舅にあんな嫌味を言われねばならないのか。彼には一人姉がおり、出戻っている。そして、今回離婚は回避したが、彼もつい最近まで別居していた。つまり、自分の子供達は二人とも結婚相手に恵まれなかった、とそう言いたかったのだろう。塔子は流れていく景色を眺めた。沸々と怒りが腹の底から湧き上がり、獰猛な炎は目の前の風景全てを焼き尽くすほどだった。やがてそれは徐々に治まっていき、後に残ったのは静かな確信と、ちょっとした可笑しみだった。連鎖だ。根本は、ここにあったのだ。出会った頃から感じていた、彼の父親への違和感。義母は自分がモラハラにあっている事を一生気付かずに生きるのかもしれない。それならそれでいい。本人がそれでいいのなら、私が口を挟む事ではない。逆に、何も知らないまま一生を終える方が、本人達は幸せなのかもしれない。舅の歪みきった被害者意識を垣間見て、塔子は少し笑った。加害者にしろ、被害者にしろ、自分自身にしろ、被害者意識とはなんと醜くて厄介な代物だろう。殊に七十にもなった老人の頓珍漢で一人よがりな被害者意識ほど、醜悪なものはない。

しかし、義父はこれからの自分の課題を見せてくれたのだ。母が亡くなった直後の別居。介護から葬儀まで一切何の手助けもしなかった彼。仕事、家事、育児、介護。モラハラ。もうこれ以上は背負えないと心で悲鳴を上げながらも、黙々と手を動かし続けた。結果、自分には何も残らず、ただ蜘蛛の巣のごとく蔓延ったのは被害者意識そのもののみであった。自分も、あの七十の老人と、同じなのだ。自己憐憫は、甘美だ。美酒のような、甘い涙さえ誘う。やがて、そこから抜け出せなくなる。被害者意識。自己憐憫。それらが真に無様な存在で、持っていても何の価値もない事を、舅は示してくれたのだ。そして、これらを乗り越えるのが次の自分の課題である事に、塔子は気付いたのだった。


「からくり」シリーズ



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vol.113 目覚め 4

迷いはあった。自分のしている事に完全な自信などなかった。どこかで間違いを犯している事を微かに感じていた。それでももう、船は進み始めた。船頭は、自分だ。これまでのように穴の空いた船の片隅で悲鳴をあげて傍観しているだけではいられない。道が間違っていても、嵐に襲われて沈んでも、それは自分の責任だ。誰かに擦り付ける事は出来ない。

それでも、いつも気になるのは子供達の存在だった。二人の争いに子供を巻き込む事を、塔子は申し訳なく思っていた。彼らの生活がガラリと変わってしまうかもしれないのだ。それは仕方のない事だと思うのだが、一方では自分の不甲斐なさを責める気持ちがあった。スポイルされきった環境にいた子供達が、果たしてこの大きな障害を乗り越える事が出来るのだろうか。そして、自分は彼らの戸惑いに深く寄り添える心の余裕や時間が持てるのであろうか。私は自分自身でいっぱいいっぱいになってしまうのではないだろうか。金銭的な問題もある。今までも一人で子育てしてきたようなものであるが、やはり本当の一人親になってしまうのはこれまでの生活とは大きく異なる事が生じるかもしれない。塔子の悩みは突き詰めて考えてみれば、子供を盾にしているようなものだった。結局は、自分に自信がないのだ。やってしまえば案外簡単に事は進むのかもしれないが、その一歩が踏み出せない。お金の事、子供の事、それらは本当に悩みの種であるが、もっと奥深くに潜む根本的な問題は、それらとは比べ物にならないほど巨大な壁で、下から見上げる塔子を完全に打ちのめすのだった。

今までも、孤独だった。二人でいて孤独なら、別れてしまっても大差はない。頭ではそうわかっているのだが、どこかで二の足を踏む自分がいるのだ。父が出て行った。母が死んだ。そして、今度は人生の伴侶ともさよならしようとしている。結局、自分には何も残らなかった。父は軽く私を捨てた。散々私を利用し、夢も希望も時間もお金も、たくさんの大切な物を私から奪い取った母は、もうこの世にはいない。私自身を大切にしてくれる人、私を愛してくれる人、それらはいつしか泡のように弾けてどこかへ消えてなくなってしまった。否、今までもそうだったではないか。父は私を愛した事などなかったではないか。母は私を共依存にし、利用するだけ利用していたではないか。彼らはいつも自分の事だけを熱心に考えて、子供の私の事など全く眼中にはなかったではないか。彼と別れたところで、これまでの状況となんら変わりはないではないか。

ただ、自分が箱にこだわっているだけなのはわかっていた。一見、綺麗に見えるが、実は中身が空っぽの箱。中にいるのは、自分一人きりだ。かつてはそこにも人がいたが、やがて一人減り、二人減り、気付けば一人になっていた。新たに一人加わり、二人加わり、いつしか失ったのと同じ数が補充されたが、それらにまとまりはなく、箱の中でお互いに全然違う方向を見ていた。それに違和感を感じていたのは塔子だけで、彼の方は万事上手くいっていると思っていた。その箱は他所から見れば理想通りの美しい外観をしていた。ところが実際開けてみれば、中は空洞と大差はない、お粗末なものだったのだ。それでも、雨風はしのげる。一家団らんの真似事も出来る。一人だけど、一人だと誰にも気付かれない。孤独だけど、孤独だと誰にも気付かれない。自分自身さえも騙されるほど、その箱は外面だけはよかったのだ。そういった形だけのもの、ただ形だけそこにあって中は空っぽのものさえも、塔子には大切だった。最後の砦だったのだ。今、自分はそれを自ら壊そうとしている。粉々に、跡形もなく、粉々に。そして、野ざらしになろうとしている。自分だけならいざ知らず、子供達まで巻き添えにして。果たしてそれが本当に正しい事なのだろうか。

そんなに、自分のプライドを守る事が大切なのか。死んだように生きて、奴隷のように心を無にして、これまでの通りの人生を歩めば、誰も傷付かずに済むのに。誰かの心から血が流れる様を見るのが恐ろしいが故に、それが無理難題であっても自分の手には負えなくても、父の場合も母の場合も彼の場合も、もぎ取るようにして引き受けてきたではないか。今まで出来た事を、何故今更止める必要があるのか。そんなに、我を通す事が大切なのか。

大切なのだ。これまでの三十数年、気付かぬふりをして見捨て続けた大切な何か。きっと周りの人々は当たり前のようにそれを育み一番に守ってきた何か。自分だけがそれに目もくれずに打ち捨てた何か。これからはそれを最優先させる。死にかけているそれを救い出し、誰が何と言おうと守る。間違っていてもいい。人に何と思われようと構わない。自分を信じる。それだけだ。

事態は急展開した。初めて彼の方から連絡が入り、これまでの行いを謝罪したのだった。
「今まで、ごめん。俺、変わるから。許して下さい」
塔子は複雑な気持ちでその言葉を聞いた。およそ十年の苦しみが、こんなちっぽけな一言で簡単に括られてしまうものなのか。これで全てがなかった事にされてしまうのか。本当にこの人は反省しているのか。これからの人生、何をどう変えようとしているのか。全てが謎に包まれていた。頭の片隅にある冷静な自分が警告を発していた。信じてはいけない。たくさんたくさん、勉強したではないか。これはモラハラの常套句だ。彼らは平気で嘘をつく。自分の身を守るためなら、彼らは嘘をつく事など朝飯前なのだ。嘘をついたり卑怯な事をしたり、普通の人なら躊躇したり後ろめたく思ってしまう場合でも、彼らは平常心を持って何も悪びれる事なく平気で行えるのだ。これは罠かもしれない。
でも、もし、彼が本心からそう言っているのなら? モラハラは一生治らないという事はわかっている。どの本を読んでも、どのサイトを見ても、書いてあった。でも、もし、彼が本気で謝罪しているのなら? 真剣に変わろうとしているのなら? 騙されてはいけないと知りつつも、塔子の心はぐらぐら揺らいだ。発芽したばかりの芽は、まだ脆く、ひとたび風が吹けば簡単に首をもたげる。なにより、人を疑って生きるより、信じたい気持ちの方が大きかった。いつもいつも騙されないように用心して生きるのも一つの手だが、そんな寂しい生き方を選びたくはなかった。それに、ここでわかった、と頷いてしまえば、自分はやっと楽になれるのだ。やっとこの長い苦しみから解放されるのだ。悩みからも、孤独からも、不安からも、恐怖からも。塔子は彼を許した。

選択が間違っていたかどうか。それはすぐに答えの出るものではなかった。三十代の塔子にとって、人生はまだまだ長く果てしないものだった。スタートラインに立ったばかりのひよっこのようなものだった。答えは一年後に明らかになるかもしれないし、あるいは十年、二十年、三十年後にわかるかもしれなかった。たとえ結果がどうであれ、決断したのは自分なのだから、自分に責任を持って生きようと思った。もう、これ以上の苦しみはないだろうから。平穏に動き出した新しい生活の中で、塔子は今までとは違う、どこか観察するような面持ちで彼を眺める事が多くなった。小学生だった時、夏休みに昆虫を捕まえて籠に閉じ込め毎日観察していた時期があった。今まさに塔子のしている事は、その昆虫観察の延長のような気がしていた。

義母から連絡が来た。「夫婦仲良く」、「私も若い頃は苦労をした」、などの老人にありがちなどうでもよい戯言が続いた。今までの塔子なら適当に受け流していたが、今回はそうしなかった。塔子は義母の空いている日を確かめ、話があるのでその日にそちらに伺う事、その時義父も必ず同席するようにと伝えて電話を切った。その夜、塔子は彼が帰って来ると、〇月〇日にあなたの実家に行くから、と伝えた。直接ではないが、子供伝いに聞いたあなたの両親に言われた暴言の真意を確かめたいから、とハッキリ伝えた。彼の目が泳ぎ始めた。
「いいよ。俺は行った方がいいの?」
「それはどちらでも。あなたが行きたいのなら行けばいいし、行きたくないのなら行かなくてもいいし」
塔子はそう言いながら、落ち着いて彼を観察していた。一体、彼はどうするつもりなのだろう?
「俺は、行く。行くけど、お前の味方はしない。俺は俺の両親が大切だから、絶対にお前の味方はしない。それでもいいか?」
「あなたの実家なんだから行きたいなら行けばいいじゃない。でも、私を庇おうとか両親の嫌がらせから守ってやろうとかは思わないんだ?」
「そういう気はない」
「わかりました」
塔子は彼の傍をすり抜けて自室に入った。答えは案外すぐにやって来るものなのだ。人なんか、急に変わるものじゃない。自分も含めて……。

地獄の蓋が、再び開いた。塔子は孤独な我が身を呪い、見る目のない馬鹿な自分を呪った。それでも、船は進み続けている。顔に降りかかるこの水は、嵐の最中の波飛沫なのか、自分の流した愚かな涙なのか。今はわからなくても、それでも、進み続けるしかない。この船の船頭は自分なのだから。


「目覚め」1~3



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vol.112 豚に真珠

父方の祖母は塔子が二十二歳の頃に亡くなった。九十くらいまで生きた、大往生だった。塔子が高校生で、その祖母がまだ元気だった時、祖母が突然母に何かプレゼントがしたいと言い出した。
「いつも世話になっているからね。あんたに何も残してやるものがないし」
祖母はそう言い、塔子の父、つまり祖母にとっては自分の息子にいくらかのお金を手渡した。
「これで、二人でデパートへ行って何か買っておいで」
そんな事してもらわなくてもいいんですよ、と母は辞退したようだが、祖母は引き下がらなかった。
「いいんだよ。あんたには一番世話になっているんだから。そうだ、真珠がいい。真珠のネックレスを買っておいでよ。真珠ならこれから先使う事もあるだろうから」
頑として譲らない祖母の言葉に、母は大人しく従う事にした。年を取って、祖母はその当時は丸くなっていた。それまでの数々の確執が嘘のように、二人はうまく行っていた。祖母には数人の娘がいたが、彼女らは皆嫁に行き、子育てや嫁ぎ先の義理の親の世話や仕事などで忙しく、実家へ毎日顔を出す事はなくなっていた。母も弱ってしまった実母の面倒を看ていたが、姑の様子伺いも欠かさなかった。病院へ行きたいと言えば連れて行き、役所で何やら手続きがあると言われれば代わりにしてやり、何も用事がなくても週に何度かは必ず顔出しをしていた事から、徐々に祖母の気持ちが動いたらしい。亡くなる数年前には「あんたは実の娘達より、私によくしてくれた」と労いの言葉を口にするようになっていた。そんな時、その提案が来たのだった。

普段は東京へ単身赴任をしていた父が、帰って来ていた時だった。母はいそいそと準備をし、二人でデパートへ出掛けて行った。父と共に外出する機会もめっきり減っていたからか、母はどことなく嬉しそうな様子だった。いつもは着ない上等の服に袖を通している明るい笑顔の母を、塔子は手を振って見送った。
「お母さん、嬉しそうだったよね」
塔子が弟にそう言うと、弟もうんうん、と頷いた。
「久し振りだからじゃない? 二人で出掛けるのも」
「なんだか、デートみたいだよね」
塔子がクスクス笑うと、弟もフッと笑った。
「ウキウキしてんじゃない?」
二人は笑った後、塔子は近所に住む友達の家へ遊びに行き、弟は部活へと出掛けて行った。数時間後、一番最初に家へ戻ったのは塔子だった。家にはまだ誰も帰った様子がなく、塔子は鍵を開けて中へ入った。弟の部活は今日は練習試合だけだから、きっともうすぐ帰って来るはずだ。父と母は久し振りに二人でデパートへ行ったのだから、きっともっと遅くなるに違いない。お目当ての物を買い求めた後も、おそらくあれこれ見て回ったり、食事をしたりするだろう。塔子は一人きりの時間を満喫しようとした。何をしようか。溜まっている録画でも観る? 友達と貸し借りした本や雑誌や漫画を読む? それともちょっと昼寝でもしようか。ソファに座ってパラパラと雑誌をめくったところで、玄関のチャイムが鳴った。一体、誰だろう? インターフォンに映ったのは父と母の姿だった。えっ、もう帰って来たのか。塔子が鍵を外し、扉を開けると、そこには仏頂面の父と怒りで頬を真っ赤に染めた母の姿があった。
「もう帰って来たの? 早くない? 何かあった?」
二人は電車で行くと言って出掛けたので、この帰宅時間だと、デパートへ行って帰って来た往復の時間の方が長いくらいだった。父は塔子の問いに答えずにスッと中へ入って行った。母も何も言わず、ただ顔を真っ赤にしたまま靴を脱ぎ、玄関に立った。よく見ると涙を流していた。
「どうしたの? 何があったの?」
「……何もない」
「何もないって、泣いてるじゃない」
「……私、私が欲しいって言ったわけじゃない」
「えっ?」
「あなたの親が買ってあげるって言ったんじゃないっ! 私が買ってくれって何も頼んだわけじゃないっ!」
母は突然真っ赤な顔のまま玄関で叫んだ。塔子は面食らいながらも、まぁまぁ、と背中をさすった。
「取り合えず、中へ入ろう、ね?」
塔子は母の後ろに回り、リビングまで母の背中を押して行った。扉を開けるとそこには不貞腐れた顔の父が胡坐をかいて座っていた。
「何があったの? 出掛ける時はあんなに楽しそうだったのに。ねぇ、お父さん。喧嘩でもしたの?」
父は黙ったまま、ただ座っていた。塔子は父に訊くのを諦めて、母に向き直った。
「せっかく、お洒落して二人で出掛けたのに、何も喧嘩してこんなに早く帰って来なくても、仲良く楽しんで来たらいいのに……」
「……私も、そう思ってた。そのつもりだった」
母は父を見つめながらそう呟いた。
「……そのつもりだった。でも、この人は、この人は、私には真珠なんか必要ないって。贅沢だって、馬鹿にした」
「そういうつもりで言ったんじゃない」
それまで黙っていた父がぼそりと呟いた。
「でも、同じ意味じゃないっ! あなた、デパートで何を言ったか覚えてないの? 売り場の人に真珠を付けてもらった私を見てゲラゲラ笑って、豚に真珠だな、豚に真珠だなって言ったのよ!」
母はその場で大声を出して泣き崩れた。
「私が買ってくれって頼んだわけじゃない! あなたの、あなたの親がどうしてもって言ってくれたから行ったのに、どうして私がそんな事を言われなきゃならないの! どうしてデパートの売り場で、人が大勢いる中で、指さして笑わなければならないの? どうしてそんな恥をわざわざかかされなければならないの? 豚に真珠だなって、豚に真珠だなって、どうしてそんなひどい事を言われなければならないの!?」
塔子は何も言えず、ただ泣き続ける母の背を撫で続けた。高校生になったばかりの塔子は、うんざりした気持ちだった。それは父に対してもそうであったし、また母に対してもそうであった。子供の前でわざわざ揉め事を持ち出す母の子供っぽさに嫌気がさしたし、軽口のつもりであっただろう父の馬鹿みたいな振る舞いにも、心底嫌気がさした。どっちもどっちだ、と塔子は思っていた。

それから暫くして、それが原因では全くないが、とある事情により二人は離婚した。それから数年が過ぎて、あの当時を思い出してみると、あの時は見えなかったものが塔子には見えるようになっていた。結局は、積み重ねなのだ。それ一つは小さなたわいない事柄であっても、塵も積もれば山となるのだと。ほんの些細な日常の一コマに、その人の人となりが、人間性が滲み出るものなのだと。そこに、悪気は全くなかったのかもしれない。もしくは、受け取り側の方にも問題があったのかもしれない。それでも、情けない思いをわざわざさせる人間がこの世には存在するという事はわかった。状況を判断しない余計な一言を、さも得意気に吐く。本人はウイットに富んでいると思っている。皆はそれを聞いて、まぁ、オホホと笑ってやらなければならないタイプの人間がこの世には存在するという事がわかったのだ。父は、社会的地位があった。そして、社会的地位とその人の人間性というものは綺麗に比例するものではないという事がわかったのである。15の春の事だった。



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vol.111 目覚め 3

訪れたどのサイトを見ても、答えはただひとつ、逃げろ、だった。相手は精神の吸血鬼であり、それは絶対に変わる事はない、と。社会的地位は高く、善良な市民であり、温厚な人柄である。表面上はなんの欠点も見当たらない、むしろ良い人間にすら思える。しかし、彼らは意識的にしろ、無意識にしろ、虎視眈々と獲物を狙っているのだ。その存在がない限り、彼らは生きられないのだ。自分の地位や立場を、獲物という対象物がない限り、自分の力で構築していく事が出来ないのだ。彼らは決して改心したりはしない。間違いに気付く事はない。そもそも、自らの生き方に疑問を抱いたりもしない。逆に、多大なる自信を持って人生を謳歌している。

責任を取らない。いや、取れない。いつも誰かが代わりに処理してくれるからだ。相手は大きな諦めを持って身代わりになっている事にも気付かない。してもらって当たり前。させている意識すらない。全て出来ていて当たり前。思い通りにいかないと、相手を詰る。彼らの中ではそれは出来ていて当たり前なのだから、当然の振る舞いなのだろう。責任はいつも誰かが肩代わりしてくれるもの。幼少期には親が、大人になってからは配偶者が。彼らはそういった思考であるから、いつも世の中はスムーズに回っている。自分で出した排泄物をそのままにして、誰かがきっと流してくれると信じている。いつもそうであるから。

自分に降りかかった火の粉は必死に払いのける。それが自業自得であっても、自分で処理する事は出来ないからだ。払いのけるだけでは飽き足らず、その火の粉をわざわざ獲物に振りかけようとする。これだけ自分は大変だったんだと相手にわからせようとする。それがどれだけ陳腐な振る舞いであるかは考えない。責任は転嫁するものだと固く信じているからである。被害者が100%それに応じても、まだ満足出来ない。100%では足りないからだ。彼らはいつも満腹な状態に慣れているが故、更なるもの、プラスアルファを求めてくる。彼らは満腹ではあるが、自分が満腹な状態である事には気付いていない。自分の排泄物を流してもらうだけでは満足しない。

彼らはそれに気付いてはいないが、ひどく厚かましい。相手の人情や優しさやモラルを利用する事に申し訳ないと思う心や、有難いと思う感謝の念を、そもそも最初から持ち合わせていない。卑怯だという意識もない。彼らの中では当たり前の事なのだ。100%の肩代わりでは飽き足らず、120%で応じてもらって当然なのだ。厚かましいとは思わない。それが当たり前なのだから。自分の幸せには貪欲だが、人は幸せだろうが不幸だろうがどうでもいい。むしろ、ターゲットは不幸でなくてはならない。彼らは被害者が悲しそうにしているのを見るのが大好きだ。それを繰り返す事で、自分という存在を確かめているところがある。獲物はいつも悲しい存在でなくてはならない。そうでないと、自らの存在価値を見出す事が出来ないのだ。被害者は、いつも自問自答をしている者でなくてはならない。自分に自信がなく、足りないと言われれば全てを差し出してくる馬鹿者でなくてはならない。自分の出した排泄物を、綺麗に拭いてもらってから流してもらわないと気が済まないのだ。

彼の事を真剣に考えるうちに、塔子はまた自分自身の事を振り返った。これらは一人では出来ない事であるのが段々とわかってきた。つまり、モラルハラスメントは一人では成しえないのだ。相手がいてこそ、ターゲットとしての獲物がいてこその、モラルハラスメントなのだ。きっと、獲物は誰でもよかったわけじゃない。獲物には獲物に選ばれた何かしらの理由があるはずなのだ。塔子はその後、自分がACである事を自覚した。イネイブラーであり、またプラケーターである事も徐々にわかってきた。

この状態から逃げるも逃げないも、全て自己判断だ。それは、大きな決断だ。誰に決められるものではなく、自己責任で判断するものだ。塔子は決めかねていた。そして、最後の望みを託した。彼に連絡をするのだ。そして、本音で話し合いをするのだ。彼に嫌われるかもしれないとか、こういう事を言ったりすれば彼が傷付くかもしれないとか、そういう事は一切なしに。激高した彼に殺されても構わない。何の本音も言えず我慢して、全てはなかった事にして生きていく方が何倍も辛い。話し合ってわかる相手ではない、と数多くのサイトに書かれてあったが、それを踏まえても一度彼と真剣に向き合ってみよう。今まで隠して来た本音を、全てぶちまけてみようと決めた。もしかしたら、彼は意図的にそういう行為をしていたわけではなかったかもしれない。自分が環境によってACになってしまっていたように、彼もまた環境によって無意識に行っていたかもしれないからだ。

久し振りに会った彼は、少しやつれて見えた。やつれて見えるように意識しているのかもしれない。彼は自己憐憫を漂わせる事を恥だと思わないタイプの人間であるから、わざとそういったニュアンスを漂わせているのかもしれなかった。遠回しな嫌がらせだ。俺はお前に追い出されてから、こんなにやつれてしまったんだぞ、と言葉を発さなくとも匂わせているのだ。今までの塔子ならそのオーラにまんまと引っ掛かり、相手をよい気分にさせよう、喜ばせようと必死になるところだったが、もうそういう気持ちは起らなかった。
「元気?」
塔子が問いかけると、彼は力なく微笑んだ。なんの不足もない満タンな人生であるのに、相変わらず自分は不幸である、被害者であるという雰囲気を辺り一面に撒き散らしたひ弱な笑顔だった。塔子は彼のそういった態度に目もくれずに用件を話し始めた。
「離婚するか、しないか。決めたいの。別居してしばらく経つし、そういう事考える時間はあったでしょ」
本題をズバッと切り出すと、彼はたじろいだ。落ち着きなくコーヒーカップの淵を触り始めた。塔子は彼のそういったしぐさを、何の感動もなくじっと見つめた。
「……仕事が、忙しかったからなぁ、毎日」
「うん。私も毎日忙しかったよ」
あなたはそれひとつだけして実家に帰って悠々としていればよかったけど、私は子育ても親の死後の後処理も、その他諸々全部自分一人で黙々としていましたよ、実家という味方もなく、何のギャラリーも称賛も必要としませんでしたよ、と塔子が淡々と言うと、彼は不思議そうな顔をした。内容が理解出来ていない表情だった。
「実家には帰らなかったんだ。なんとなく。だからずっと一人でいたよ。大変だった」
「あ、そう。別にあなたが大変だった話を聞く気はないから。そういう事を聞くために会ってるわけじゃないから。冷たいようだけど、私はもうこの先二度とあなたの苦労話とやらを聞く気はないの。私がそういう話題をすると、あなたは一度もまともに聞いてくれた事はなかったよね。受け止める器はないのに、自分は受け止めてほしいなんて、小学生レベルだよね。いい歳した大人が厚かましいにも程があると思う」
「……っ」
彼はハッとした表情を浮かべ、一度塔子を凝視した後、力なく項垂れた。
「と、思うようになったの、最近。私はね。あなたがどう思おうとあなたの意見だからそれはそれでいいけど。あなたの意見は意見で尊重するけど、同調しているわけじゃない。だからもう、私はあなたの言いなりにはならないし、あなたの尻拭いをする気もないし、自分の心を殺してまでもあなたを幸せにするつもりはないの。わかる?」
「……それって、離婚したいって事だろ?」
「そうは言ってない」
「そういう意味だろうっ! 同じ意味だろうっ!」
「あなたは? 私じゃなくて、あなたは? どう思うの?」
「……俺は……俺は……」
彼は頭を抱え込んだ。コーヒーカップがガチャンと音を立てた。決められないのだ。彼は決められないのだ。何も離婚に限らず、これまでの人生、何かを自分一人で決断した事が一度もないのだ。それをすると、誰かに責任を擦り付けられなくなる事を知っていたからだ。彼は怖いのだ。決断をするよりも、その後誰のせいにも出来ない状況に陥る事が怖いのだ。
「……俺は、決める資格がない、と思う……」
「へぇ。どうしてそう思うの?」
「……出て行けって言ったのはお前だから。きっかけを作ったのはお前だから」
「そう、私だよね。じゃ、なんでそう言われたか、わかる?」
「……わからない……」
「……本気でそれ、言ってる?」
「……うん」
「あのさ、こういう事はあまり言いたくないんだけど、罪の意識がなければ何をしてもいいかっていうのは違うと思うよ。人を殺しておいて、そういうつもりじゃなかったんだーって言っても、殺した事実は変わらないよね。あなたは自覚がなかったとしても、だからといって何をしてもいい事にはならないの。自覚があったにしろ、無意識だったにしろ、人の心を殺してしまった事実は変わらない」
「……うん」
「……多分、一度にバーッと言われても、このおよそ10年間分の思いはきっと伝わらないと思うし、私も抜け落ちる事がいっぱいあると思うから」
塔子は手元の鞄から封筒を出した。
「これ。今までの事、思い出せる限り、全部書いてきた。これを読んでもらえば、私がどう思っていたかがわかると思う。読むも読まないもあなたの自由です。これを読んで離婚したいなって思うのも、したくないなって思うのも、あなたの自由です。私の意見は読んでもらってあなたの意見を聞くまで保留にしたいです。ズルいかもしれないけど、見極めたいところがあるからです。何年の何月っていう細かい描写は、いざ離婚になった時にこれをこのまま弁護士に証拠として提出するためです。それはコピーで、原本は私が持っています。今日はわざわざ来てくれてありがとうございました」
塔子は立ち上がって軽く一礼をした。そして振り返りもせずにその場を立ち去った。彼をまだ愛しているのか、もう愛していないのか。そういう次元はもうすでに終わっていた。彼が一人前の男としてここで成長するのか、否か。彼は根っからのモラハラ加害者なのか、否か。もう相手に振り回されず、冷静に判断する時が来たのだ。

バカな事をしているのは百も承知だ。聡明な人は、逃げるだろう。逃げるが勝ちだ。逃げるのは、どちらかに偏っていたものを真っすぐに戻す事だ。私のしている事は、ただ逆の方向に強引に曲げているだけに過ぎない。それでも。それでも私はこの道を選んだ。まだ、あんな話の通じない男にしがみついている自分に笑った。一縷の望みに賭けている自分を笑った。


「目覚め」1~2



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vol.110 目覚め 2

母が亡くなってから、一度も泣かなかった。長い長い介護生活は、いつもすぐ側に死の匂いを感じていた。激流に飲まれているような忙しさの中でも、それは常にぴったりと塔子に寄り添い、片時も離れる事はなかった。突然の別れには人は現実を受け入れられないかもしれないが、徐々に弱っていく様を見ている間に、大抵の予想や覚悟はつく。ただ、60そこそこで亡くなったのは、あまりに早いとは感じた。それでもそれは仕方がないと割りきる事が出来た。涙はひとしずくすら出なかった。

それでも、塔子は夜になって子供達が寝静まると、声を殺して泣き続けた。強い希望の光は確かに塔子を明るく照らしている事を知っていたが、気持ちを切り替えるのはなかなか難しかった。母を想っての涙は一滴も出ないのに、これからの未来の事を思い煩うと、自然と涙が流れるのだ。今まで自分が受けてきた彼からの冷たい仕打ちを思うと、体から熱が溢れるほどの怒りを感じ、涙が止まらなくなるのだった。人を許す事は美徳だと信じ、疑いもしなかった自分の愚かさを責め、滝のように涙が頬を伝うのだ。普段どれだけ軽く扱われても、いざという時には義理の娘なのだから、きっと彼の両親は自分を慰め、心に寄り添ってくれるはずだと信じきっていた自分を責めるのだ。何故、母が死んだその瞬間から、自分は独りぼっちになってしまったのだろう。何故、一番寄り添って欲しい相手に放置され、その親達からも攻められなければならなくなったのだろう。暗闇の中、息を潜め、塔子は深く深く考え込んだ。昼間は忙しく、現実的な事柄への対処に追われていたが、夜になるとそうやって自分自身や取り巻く環境について考える時間が多くなった。

涙の中でも、今までの自分はサンドバッグだったのだ、これから自分はそれを止め変わるのだ、と強い気持ちで決めていた。

母の家の明け渡しはなかなか思うようには進まなかった。業者側の下見に一日取られ、片付けも思うようにサクサクとは進まなかった。夏の盛りという事もあり、自分も含め来てくれた業者さん達も、皆熱中症にならないように気をつけながらの作業だった。なんとか片付き、管理会社に鍵を返した。終わった。これで母絡みの用事は全て片付けたのだ。

母の町からの帰り道、母、その娘、その子供と親子三代で歩いている仲の良さそうな家族とすれ違った。瞬間、心に鉛の玉が重くのしかかったような苦しい気分になり、塔子は自分でもビックリした。母が生きていて寝たきりだった頃は、そういった親子連れを見掛ける度に辛く、我が身を呪っていたが、今やもう母は死んでいないのに、大変だった育児と介護の両立にもう悩まされる事もなくなったのに、まだ自分はこんなにもあの光輝く存在を見るのも辛いのだ、恐ろしいのだ、と思い知った。街を歩けば、いくらでもいるその存在に、一体自分はいつ慣れる事が出来るのだろう。慣れる日なんて来るのだろうか。

母の片付けを全て終えると、塔子は携帯を持っては置き、また持っては置いて、を暫く繰り返す日々を送った。彼からは結局あれから何も連絡がない。いつものように、こちらから働き掛けなけば、今回の別居騒動も何の進展もない事は嫌というほどわかっていた。いつもの事だ。待っていても、彼は何も動かないのだ。塔子は何度も彼に連絡をしようとしたが、やはり出来なくて携帯を放り出してしまうのだった。このままではダメだという事は痛いくらいにわかっていたが、母が死んでからの怒濤の忙しさからやっと解放されたのに、わざわざまた長く苦しい道のりに自ら踏み出して行く事に、どうしても気が乗らないのだった。あぁ、こんな辛い時に帰れる実家があったなら。あぁ、こんな辛い時に分かち合える伴侶がいたなら。でも現実はどちらも自分にはなく、自分で頑張って前に進んでいくしかないのだ。自分は両方持っていない空っぽの存在なのだから、その厳しい現実を受け入れ、自分で自分を幸せにしてあげるしか道はないのだ。

その頃から、自分を振り替えりつつ、彼の事も深く考えるようになった。今まで彼が塔子にしてきた行いの数々を、じっくりと思い出し、その意味について考えるようになった。ある日、世の中には自分と同じような境遇にある人はいるのだろうか、とふと思った。自分と同じような境遇。親がいなくて帰る実家がなく子育てをしている人。配偶者やその親から蔑ろにされている人。まだ手のかかる小さい子供の育児をしている若い世代なのに親の介護も同時にしている人。それら全部を背負い込んでしまった自分とぴったり当てはまる人はいないかもしれない。でも、どれか一つでも当てはまる人なら、この広い世の中たくさんいるに違いない。

夜になると泣く回数は減り、代わりにネットで色んな知りたい事を調べる日々が続いた。どうして自分はいつも彼にあんな態度を取られなければならなかったのか。まず知りたいのはそこだった。検索する言葉を何度も変え、塔子は色んなサイトを覗いた。そしていつも黒い霧のように感じていたその正体が段々わかってきた。モラルハラスメント。彼は自分にモラルハラスメントを行っていたのだ。

後ろから彼は両手で私の目を覆っていた。おそらく、出会った時から、ずっとそうだったのだ。気付かなかっただけで。自分だけが気付いていなかっただけで。今、自分は事実を知った。彼に目を塞がれて生きていた事を知ってしまった。事実を知ってしまったからには、その指をゆっくりと剥がし、勇気を持って後ろを振り返ってみよう。一体、本当の彼はどんな顔をしているのだろうか。



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vol.109 目覚め 1

生まれて初めて、本気で誰かを心底憎んだ。こんな感情は初めてだった。皮肉なもので、それを認識する事によって、塔子に新たな世界が広がった。これからの事ではなく、これまでの自分を深く振り返るようになったのだった。当たり前と受け入れてきた自分の日常が、如何にグロテスクに歪んでいたかを少しずつ知っていくような感覚であった。日々、渦中にいる時には決してわからなかった、自分を取り巻く状況が、まるで霧が晴れるように徐々にわかってきたのだ。

どれだけの長い期間、自分は自分を野ざらしにしてきた事か。どれだけの長い期間、自分は自分を助けようとはしなかったのか。自分で自分を見捨て、蔑ろにし、心ない人達に生贄として捧げてきた事か。それを当たり前の日常だと思い込み、献身こそ美徳とし、何をされても言われても、曖昧に笑って誤魔化し、本当は傷ついているのにそれにも気付かず、気付いた時にもなかった事にして目を逸らし、どす黒い感情に蓋をして隠し、自分の汚い感情を認めずにその痛みに震え、上手く立ち回れない自分を責め、責めて責めて責め続けた毎日だった。

自分が愚かであったと気付いた塔子だったが、そこから次のステップへと進むのは大変困難だった。頭では理解出来ても、心が追い付かないのだ。自己憐憫は甘美で、まるでぬかるみにはまったようになかなか抜け出せるものではなかった。被害者意識は執拗に塔子にまとわりつき、先へ進もうとする足にしがみついて放さないのだった。雁字搦めの状況に、今まで以上に苦しむ事になった。自己批判、未来への展望、自責の念、被害者意識、他者への怒り、真実を知った安堵感、深い悲しみ、自分への怒り……それらは目まぐるしくクルクルと数秒毎に入れ替わり、塔子を混乱の渦に陥れた。それでも、今までとは何かが違った。サンドバッグを止めようと決めた時点で、何かピカピカ光る新しいものが、塔子の心の中に生まれたのだ。それはまだか弱く、未熟で、今にも消えてしまいそうなものだったが、不安な夜には道しるべとなり、ほんの少しの勇気を与え、涙の後にも立ち上がる希望を与えるものだった。人によってはそれを自己と呼ぶのか、プライドと呼ぶのか、塔子にはわからなかったが、その新しく芽生えた何か、その何かを大切にしよう、灯を消さずに守っていこう、と思った。

母の住んでいた隣りの市にある市役所へと電話を掛けた。母が死んだ事を伝え、葬儀社にしてもらった以外にどういった手続きがまだ残っているのかを把握しなければならなかった。電話に出た市役所の女性は、ご愁傷様ですと言った後、丁寧に教えてくれた。この手続きは何階のどこそこ、その手続きは別館の何階、などと細かく説明し、いつまでに済ませればよいかや、必要な持ち物を教えてくれた。塔子は礼を言って電話を切った。今まで市役所の人にこんなに親切に事細かく説明を受けた事がなかったので、感動すら覚えた。それほど死は重いのか、尊いのか。母が生きていた時には受けなかった他人からの優しさを、塔子はじんわりと噛みしめた。それが死という大きな存在がなせる業なのか、偶然なのか、受け取り側の見方が変わったせいなのか、塔子にはまだよくわからなかった。その全てだったのかもしれない。

数日後、市役所に出向き、あちこち移動をして全ての手続きを終える事が出来た。どの窓口に行っても親切に対応してもらった。疲労は溜まったが、まだまだゆっくりもしていられない。母の住居をどうするかを考えなければならないからだ。これは気の重い作業だった。考えるだけで塔子の胃が圧迫された。母は片付けが苦手というレベルを遥かに超えていたからだ。一度か二度、母がまだ生きていて入院していた頃、あれとあれを取って来て、と鍵を渡された事がある。迷いに迷って辿り着いた母の住居の鍵を開け、中に入って探し物をする気が一気に失せた経験がある。塔子は汚い環境が生理的に無理なのだ。閉め切った部屋の空気はどんよりと重く、雑然と物が所狭しと置かれてあった。匂いも、見た目も、何もかもが無理だった。手に触れる事はおろか、その場で息をする事すら汚らわしく感じた。塔子は息を止め、ダッシュで探し物をし、本当に必要な物だけを掴み取り、後のどうでもいい物は探しもせずに飛び出したのだった。また、あの場所へ行かなければならないと思うだけで、塔子は心底嫌気がさした。最後のお務めだと割り切ろうにも、どうしても行きたくはなかった。それでもやらなければならない。塔子はうんざりしながら母の住んでいたマンションの管理会社へ連絡をした。母が亡くなった事、生きている限りはと家賃を支払い続けていたが、そういう訳でいついつまでに退去したいという旨を伝えた。管理会社の承諾を得ると、次はネットで遺品整理をしてくれる業者を探した。一人暮らしだった母のマンションは大した広さではなかったが、如何せん物が多かった。娘の沙耶が生まれて間もなく、孫の面倒をみたくない一心で遠くに引っ越して行った母であったが、結局そこに住んでいたのはほんの数年程度で、そこから長い入院生活が始まったのであるから、常識的に考えればこんなに物が溢れるほど溜まるはずがないのだ。テレビでやっているゴミ屋敷状態には一歩及ばないが、塔子から見れば似たようなものだった。自分で片付けが出来ないのならば、無駄金であろうと業者に頼るしか方法はなかった。何も生活費から出すわけでもなく、自分の持ち金で対応するのだから、誰に何を言われても痛くも痒くもないと腹をくくった。実際、身内以外の誰にも母の死を告げてはいなかったので、もったいないだの自分でやればなどと言う無責任な知人もいなかった。

数社ある業者からなんとかこれというところを選び、連絡をし、下見や見積もりを取ったりしている間に夏休みに入っていた。業者に依頼したとはいえ立ち合いや支払いやその後の管理会社とのやり取りもあるので、結局は一日仕事になる。小学三年の沙耶と小学一年の海斗の居場所を確保しなければならなくなったが、二人を預けるところがない事にふと思い当たった。ほんの数時間の留守番なら出来ても、いつ終わるか先の読めない作業のために何時間も留守番をさせるのは憚られた。別居中という事もあり、彼に連絡を取るのは避けた。夫婦間の事と父親としての責任とはまた別問題であるが、わざわざこちらから連絡を取りたい気は起らなかった。向こうの祖父母に預けるのは当然の事ながら論外であった。彼らと連絡を取る時がこれから先あるのならば、それは子供絡みではなく、きちんとした話し合いで真正面から向き合うつもりだった。逃げも隠れもしないし、逃げも隠れもさせない。しかしそうなると、近所に住むママ友しか預かってもらうところがないのが現実だった。彼女達には何も話してはいなかった。母が死んだ事も、そもそも長い介護生活をしていた事も、何も話してはいなかった。同じ街に住んでいるご近所さんであっても、彼女達は別世界に住んでいるような気がしていた。次元が全く違うのだ。彼女達には当たり前のように両親がいて、誰も二十代や三十代の若い身空で親の介護をしている者などおらず、未だに親にべったり頼り、甘えさせてもらっている、どこにでもいる普通の人達なのだ。あまりに塔子とはかけ離れている環境の人達に、どこまで話せばよいのかわからなかった。預かってもらうとなると、ある程度その理由も話さなければならないだろう。塔子としてはそこは避けたかった。まだ母が死んだ実感もないまま、彼と別居している事、義理の両親から受けた惨い仕打ち……それら一連の流れを自分でもまだ理解しきれていないのに、赤の他人にどう説明すればよいのかわかるはずもない。身内といえば弟くらいしか頼れる人はいないが、弟は他府県に住んでいるため、簡単に行き来出来るはずもない。
「あぁ、どうしたらいいのかな……」
塔子は考え込んだ。考えながら、これはこの先何度もぶつかるであろう障害である事に気付かされた。もしこのまま離婚となったら、自分には実家がない分、他の普通の人が離婚するよりも遥かに高い壁があるのだ。子供はいつ発熱するかわからないし、いつ怪我をするかわからない。その度に私は一人でそれら全てに対処しなればならないのだ。保健室まで迎えに行ってくれる親は二人ともいない。夫もいない。夫の両親もいない。仕事場を抜け出してお迎えに行き、病気の子供を病院に連れていく間もなく家に一人置き去りにして職場に戻る。小学校は他愛のない事でも万が一に備えて直ぐに連絡をくれる。その度に自分は一人しかいないのに、同時に会社にも学校にも病院にも存在しなければならなくなる。自分の事だけなら今すぐ別れても何も惜しくはない夫やその両親であっても、子供達の事を考えると、自分の都合や感情だけで決めてしまうのは危険だった。

その時不意に、子供達が夏休みに入る前に学校からもらってきていたプリントの事を思い出した。引き出しを開け、ファイルを取り出し、一枚一枚確認する。あった! これだ! そこには今年度から実験的に夏休み期間の子供の居場所を確保する取り組みが書かれていた。あぁ、なんてラッキーなんだろう! これに申し込めば、学校が子供達を預かってくれる! 塔子は受話器に手を伸ばし、何月何日にフルタイムで予約をしたいとお願いした。電話に出た先生は、水着や宿題や弁当や水筒の用意などを詳しく教えてくれた。塔子は礼を言って電話を切った。助かった! これで万事片が付く。

夏休みなのに学校になんて行きたくないよ、と渋る二人を説得して、なんとか学校に送りこんだ。後は母の住居の片付けに向かう。これさえ済めば、部屋を綺麗にしてもらって、管理会社に鍵を返したら、母絡みの用事は全て終わる。
そして、ここから本当の戦いが始まるのだ。私はまだ何も本質をクリアにしてはいない。死んだ人間の後片付けも大事だが、生きていて宙ぶらりんのまま放置されている人間関係を、修復しなければならない。または、縁をハサミで自らが責任を持って切らなければならない。塔子はまだ決めかねていた。彼に連絡を取って、話し合いを始めなければならない時期が、もうそこまで来ていた。



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