vol.108 根なし草 10

ベルメゾンネット


今、自分に渦巻いているこの感情に、塔子は名前をつける事すら出来ずにいた。辛い。苦しい。痛い。塔子を取り囲んでいるこのどす黒いざらざらとした粒子の粗い煙のようなもの、これは一体何なのか。塔子にはそれが何であるのかわからなかった。あまりにも漠然としていて、その感情に名がある事すら気付かずにいた。子供達の手前、何事もなかったかのように日常は振る舞った。今日は習い事の送り迎え。明日の一、二時間目は水泳の授業があるからプールの用意。こなすべき日常の細々とした事は、塔子が生き生きと楽しく生きていようがいまいが、何の変わりはなく平等に訪れるのだ。

彼が出て行ってから一週間ほどした頃、子供達がおずおずとおじいちゃん、おばあちゃんの家に遊びに行ってもかまわないか、と言い出した。瞬間、塔子の胸は矢を刺されたかのようにグサッと鋭い痛みが走った。嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 子供達は父親に会いたがっている。そして、祖父と祖母に会いたがっている。塔子は激しく動揺した。吐いてしまいそうなほどの不快感が体中を貫いた。おぞましさのあまり、塔子は目を閉じた。平衡感覚が失われるほどの目眩が襲う。それでも、塔子はどうにか笑顔を作り、いいよ。行っておいで、と囁いた。子供達には、何の罪もない。何の罪もないのだ。ただ、純粋に父親やおじいちゃん、おばあちゃんに会いたいと思っているのだろう。子供達が行ってしまうと、塔子の心はぽっかりと穴が空いたような、虚ろな気分になった。大丈夫だ。二人はすぐに帰ってくるだろう。そうは思っても、心は不安でざわついた。やはり、行ってはだめだと言えばよかったのか。違う違う、それはエゴだ。私の勝手な醜いエゴを、子供達にぶつけてはいけないのだ。子供達を信じて待つのだ。大丈夫。これ以上の不幸が襲いかかるはずはないのだから。

夜になっても、子供達は帰っては来なかった。程なく電話が鳴り、今日はこのまま泊まると言っている、と彼から連絡が入った。塔子は信頼を裏切られたような、がっかりした気持ちを味わいながら、床についた。私は誰に落胆しているのだろう。子供達はまだ幼く、こういう結果になってしまった理由すらわかってはいない。子供達……否、違う。きっと自分は彼に、彼に落胆しているのだ。心底、がっかりしているのだ。用件だけを言って電話を切ってしまった、彼に落胆をしているのだ。何故、こんなあやふやな状態のまま、全てを放り出しておけるのだろう? 何故、こちらからきっかけを作らない事には、彼は改善のため自ら動こうとはしないのか? 何故、私は母が亡くなって数日しか経っていないのにもかかわらず、なんの慰めも励ましもなく、一人侘しく放置されなければならないのか。

翌日、子供達は帰って来た。出来るだけ明るくいようと、お帰り、とぎこちない笑顔を作って出迎えた。ただいま、と呟いた子供達の顔は、どこかひきつったような、妙な表情だった。まず、塔子と目を合わせようとはしない。一体、どうしたというのか。向こうの家で、一体何があったというのか。準備していた夕食を三人で食べている時も、漂うのは違和感しかなかった。晩御飯を食べ終え、皿を洗い終えた頃、とうとう何も話さない子供達に向かって、塔子は出来るだけ明るく何気無く質問してみた。
「ねぇ。おばあちゃんのお家で何かあったの?」
「えっ……ううん。何もないよ」
小学三年生になった娘の紗耶が、ソワソワしながら、有らぬ方を向いた。
「でも、あなた達、様子が変だよ。絶対何かあったんだと思うなぁ」
「だって、お母さん……言えないよ、お母さんには……」
「う~ん。心に溜めてる方が、ツラくない? 言っちゃえば楽になるかもよ」
「うん……でも、お母さん、嫌がるかなぁって思うから……」
「お母さんの事を気遣ってくれて言えないなら、そんな事は気にしなくていいんだよ。お母さんは大丈夫だから」
「ホント? じゃあ言っちゃうけどね……お母さん、お母さんって、悪い人間なの?」
「はっ?」
「だって、おじいちゃんが怒ってたよ、お母さんの事。あの子は悪い人間だって。うちの可愛い息子を追い出した、とっても悪い人間だって」
横でぼうっと成り行きを見つめていた小学一年生の息子の海斗が、突然そうそう!と叫んだ。
「お母さんは悪い人間だって、おじいちゃんが言ってた! 何度もそう言って怒ってた!」
二人はじぃっと塔子の顔を見つめた。
「お母さん、悪い人間だったんだね。知らなかったよ」
「ずっと、優しくていいお母さんだと思ってたのに。本当は違うんだね……」
「おばあちゃんも、怒ってたよ、お母さんの事。こっちが買ってやった家に勝手に住んでる悪い人間だって」
「そうそう! おばあちゃん、スッゴク怒ってたよ。あのね、お魚を焼きながらお父さんとおじいちゃんとおばあちゃんの三人で怒ってたらね、お魚が真っ黒に焦げちゃったの。おばあちゃん、お魚焼いてる事、忘れちゃうくらい怒ってたから」
塔子の目の前から、一切の色彩が消えていく。ギィギィと心が捻られていく音だけが聞こえる。これ以上の、これ以上の不幸はもうないと思っていた。甘かった。本当に甘かった。まだまだ、まだまだ、悪夢は続くのだ。これまでよりもヒリヒリと辛く、全身を赤剥けにされたようだ。否、違う。もう、すでに私は赤剥けの状態だったのだ。それを彼と義理の両親は、事もあろうに寄ってたかって皮膚のない体に更に追い討ちをかけるかのごとく、情け容赦なく鞭打ったのだ。

あぁ。子供達はまだこんなにも幼い。何が本当で何が正義なのかも判断がつかない。当たり前のように慈しみ、当たり前のように我が血を授乳によって分け与え、何の見返りも持たなかったとはいえ、こんなにもあっけなく日々の積み重ねや努力や揺るぎない愛情さえも木っ端微塵に潰されてしまうとは。何の確証もない発言に、一方通行の偏った意見に、いとも容易く親子の絆さえも引きちぎられてしまうとは。悔しさのあまり、ブルブルと震えながら、塔子はニッコリと微笑んでみせた。
「大丈夫だよ。あなた達のお母さんは、悪い人間?とかじゃないから。何を言ってるんだろうね、子供の前で。きっと、何か勘違いしちゃったんじゃないかなぁ~」
「えっ? そうなの?」
「お父さん達が間違ってるの?」
「う~ん。どっちが間違ってる、間違ってないとかの問題じゃなくて……。お母さんはよくわからないけど、きっとどっちも間違ってないんじゃないかなぁ~」
「ふ~ん。そっか」
「なぁ~んだ。そうなんだぁ」
「あなたのお母さんは悪い人間って言われたから、なんだか帰りづらかったんだよね」
「ボクも! 帰るのがホントはスゴく嫌な感じだった! だって、悪い人がいる家には帰りたくないもん」
「誤解されたら困るから言っておくけど、お母さん、別にあの人達のお金を勝手に取ってここに住んでいる訳じゃないからね。その辺も、安心してね。何~にも悪い事はしてないから」
「そうなんだぁ。よかった!」
「みんな、勘違いしちゃってるねぇ」
「そうだねぇ。悪気はないと思うよ~」
塔子の言葉に、子供達はホッとした表情を浮かべ、少しずつだがいつもの調子に戻ってきた。目もちゃんと合わせるし、硬く強ばっていた顔も柔らかくなっていった。三人で仲良くお風呂に入り、布団を三つ並べて寄り添って眠った。順番に背中を撫でてやると、気持ちよさそうに安心しきった顔で、スヤスヤと眠ってしまった。よかった。簡単に壊されるような細い絆ではなかったのだ。どれだけ惑わされようと、結局は日々の積み重ねや真の愛情に子供達は気付いてくれるものなのだ。寝入ってしまった子供達のふっくらと膨らんだ頬を見つめながら、塔子はそう確信した。

それでも。彼らがした事は許せない。彼らは絶対にしてはならない事をしたのだ。絶対にしてはならない大罪を犯したのだ。生まれて初めて体験する猛烈な怒りに、胸がカッと熱くなる。こんな感情は、初めてだ。私は許せない。絶対に、許しはしない。今、まさに立ち上がる時なのだ。

夜更けの寝室で、塔子は誓いを立てた。これまでの自分がちっぽけに思えるほど、怒りは塔子を奮い起たせた。戦うのだ。自らの名誉のため、戦うのだ。誰も味方にはなってくれなくても、たとえ一人ぼっちでも、そんな事はどうでもよい。私はもう決めたのだから。これまでの弱い自分と、さよならするのだ。私は、私の幸せのために、これからは生きるのだ。お母さんのために自分の全てを捧げてきた自分と決別出来たように、次は彼が奪い続けた自分の尊厳を、喜びを、取り戻す番なのだ。私は負けない。私はこれから先、何かに負けたとしても、もう自分には決して負けないと、固く心に誓う。


根なし草 全十話完


根なし草 1~9


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vol.107 根なし草 9

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長くそれを持つ事は愛情と比例するのか、塔子にはよくわからなかった。しかし、塔子は早くそれを収まるべき場所へと移動させた。先日契約してきた寺が管理している永代供養の地へと、綺麗な箱に包まれた母を連れて出向いた。まだ、母が死んで数日後の事であった。冷たい娘だと後ろ指を指されても、一向に構わなかった。やるべき事はまだまだ山のようにあるのだし、一つ一つを順番に片付けていくような心持ちだった。

そもそも、自分は母に対して愛情などあったのであろうか? それについて深くは考えないできた。ただ、母の要求を聞き、要介護5になって寝たきりになってからは、病院側の要求を聞き、そうこうしている間にこんな状態になってしまった。猛ダッシュで走り続けていると、ふと気付いたらこんなところにいた、といった具合だ。それが自分の望んだ場所であっても、なかったとしても、ただあまりに早いスピードで景色はビュンビュンと後ろに過ぎ去り、それを動かしているのは確かに自分の足であっても、それすら無意識という有り様だったのだ。望んだ結果であろうが、望まなかった結果であろうが、そんな事は後付けだ。ただ求められるがままに動き、尽くした。それだけだった。

彼と子供達も一緒に付いて来た。事前に管理事務所にはこれから行くと連絡を入れておいた。彼の運転に揺られ、隣りで母を抱っこするように抱え込み、山道を登った。彼は始終無言だった。塔子はそれに薄気味の悪い違和感のようなものをずっと感じていた。何故、彼は何も言わないのだろう。こういう状況の場合、普通の夫婦ならどういう雰囲気になるのだろう。何故、私は慰めの言葉一つ掛けてもらえないのだろう。いや、実際に慰めの言葉や労わりの言葉が欲しいわけじゃない。ただ、社交辞令として、普通の夫婦間の流れとして、他の人達はどうなのだろう、とふと思うのだ。塔子に一切気遣いのない、その態度を奇妙に思うのだ。お前は贅沢だ、と結婚した頃、よく彼に言われた。問題が起きるとすぐに話し合いで解決しようとする塔子をせせら笑い、お前は蛇のようにしつこい女だといって話合う事すら不可能だった。その関係のまま数年が過ぎると、塔子の感覚は完全に麻痺してしまい、それが当たり前になってしまった。悪いのはいつも塔子。我慢が足りないのはいつも塔子。我儘で贅沢で甘ったれなのはいつも塔子。二人の中でそういう図式が完璧な形で出来上がってしまっていたのだ。塔子はそれに違和感や不快感を感じながらも、心の中でそれを全否定する気持ちもなかった。もしかして、そうなのかもしれない、と心のどこかで彼の言葉に賛同している自分がいたのだ。そう。全て自分が悪いのかもしれない。50代の若さで半身不随になってしまった母親を持つ、自分が悪いのかもしれない。現に彼の両親はピンピンしている。片親なのに結婚してもらった事を、有難く思わなければならないのかもしれない。我慢しているのはいつも彼の方で、実際自分は彼の足を引っ張っているだけなのかもしれない。そういった自己否定感が本来一番の敵である事にも気付かず、塔子は何年も何年もそういった違和感の中で暮らしていた。優しさを求める自分が甘いのだ、と自らを罰しながら、ただただ猛スピードで走り続けた。そういう生き方しか知らなかった。

思えば、彼には何から何まで塔子の全てを否定され続けた。趣味。友達。観たいテレビ番組。読みたい本。聴きたい音楽。部屋のインテリア。考え方。ファッション。風呂水の使い方。子供に注意する時の声のトーン。どれを取っても必ずなにかしらの否定の匂いを漂わせた。嘲笑。嘲り。無視。違和感を感じながらも、長い年月を重ねれば、それはまるで洗脳のように塔子自身に纏わりつき、染みつき、自己不信という悪魔の道へと塔子をじわじわと追いやるのに充分であったのだ。

事前に連絡を入れておいたので、到着してからの流れはスムーズだった。スムーズで、しかもあっけないくらい簡単なものだった。今日から暫く、母にはここで眠ってもらう。本当に納骨してしまうまで、一年の猶予がある。それまではここで静かに眠ってもらうのだ。広い墓地を、子供達は駆け回った。散歩にはよいコースだ。なんとなく離れがたく、美しく整備された墓地を歩いていると、彼の声がした。
「終わったんだろ? さっさと帰るぞ」
彼は後ろを振り向きもせず、一人で先に駐車場へと歩き出した。塔子は子供達を呼び、慌てて彼の後を追った。何故、私はいつも彼の後を必死で追わなければならないのだろう? ふとそう疑問に感じた。別れの余韻すら、私には味わう資格がないのか。惨めな気持ちが奥底から湧きあがり、塔子の全身を包んだ。帰りの車でも、彼は無言だった。
「あー。疲れた」
家に帰ると彼はどさっとソファに座った。一体、何に疲れたというのだろう。彼が何かしたのだろうか。彼が何をした事があるのだろうか。結婚してからこの9年、彼が何かした事がただの一度でもあったのだろうか。
「早く、ご飯」
「あ……うん」
塔子は喪服を脱いで慌ててキッチンに行き、晩ご飯の支度を始めた。いつもいつも、急かされるのだ。一体、何故こんなに急かされねばならないのかというほど、急かされるのだ。それも当たり前になっていた。野菜を洗って、包丁を出して切る。リビングで子供達がはしゃぐ声がする。テレビを観て大笑いしている彼の声が聞こえる。その瞬間、目の前のスイッチがカチッと嵌る音がした。いつも斜めを向いていた塔子の世界が、突然真っ直ぐになった瞬間だった。塔子は包丁をまな板の上に置き、リビングへと向かった。
「出て行って」
塔子は静かに彼に向かって呟いた。彼は塔子を見ようともせず、顔は画面に向いていた。
「出て行って」
もう一度塔子がそう言うと、彼はえっ?と笑い顔のまま振り返った。
「出て行ってって言ってるの! さっきから何度も言ってるの! もう無理なの! あなたと一緒にいるのはもう無理なの!」
気付けば声を限りにそう叫んでいた。彼の笑顔が張り着き、段々曇っていくのを冷静に見ていた。涙が後から後から自分の両目から流れていくのを感じた。自分の口が勝手に何かを叫んでいる。それはちゃんとした言葉で、ちゃんとした文章となり自分の口から出て行くのだが、何を言っているのか内容はわからない。ただ、腹の底からふつふつと沸き上がった思いが、9年間分の思いが、何の淀みもなくすらすらと自分の口から飛び出していくのを冷静に見ていた。彼の顔が岩のように硬くなっていくのと同時に、子供達の顔からも笑顔が消えていくのを冷静に見ていた。

彼が荷物をまとめている。初めての反撃にびっくりしたのか、彼はいやに素直だった。飼い犬に手を噛まれ、激昂してくるかと身構えていた塔子が拍子抜けするほどあっけなく、彼は悲壮感たっぷりの表情で、背中に自己憐憫を漂わせ、近所にある彼の実家へと去って行った。終わりだ。終わったのだ。私は全てを失ったのだ。父を失い、母を失い、そして今度は人生の伴侶すら失ってしまったのだ。もう自分には何もない。何もないのだ。塔子はその場にくず折れ、声を限りに泣いた。空っぽになった自分のどこにそんな水分があったのかと思うほど、涙はとめどなく流れた。背中で何かの気配がする。背を丸め泣いている塔子を子供達が撫でているのだった。お願い、触らないで、と塔子は心の中で叫んだ。ありがとう、ありがとうね、と口は勝手に子供達に向かって動いているのだが、実際は誰にも、子供であっても、誰にも触ってもらいたくはなかった。あぁ、一人じゃない。一人ぼっちじゃない。私にはまだ幼い子供達がいる。そう思うと塔子は勇気や希望どころか、絶望の淵へと立たされるような、じりじりと死神に首を絞められているような気がするのだった。私は誰かを守りたいんじゃない。もう、誰の事も守りたくなんかない。これまで散々、守らなくてもいい人をずっとずっと自分を殺してでも守り続けてきたじゃないか。私は誰の事も、もう守りたくなんかない。誰にも守ってもらえなかったのに。誰にも守ってもらった事なんてなかったのに……!

その日から、塔子と彼の別居生活が始まった。9年前、やっと根を張る場所を見つけた塔子は、再び根なし草へとなったのだった。


「根なし草」1~8


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vol.106 根なし草 8

喪服を着て、彼の運転する車に乗り込む。後ろの席には子供達が座っている。長女の沙耶は小学3年生に、海斗は1年生になっていた。
梅雨の時期だが、その日もよく晴れていた。車は母の住む町にある斎場へと向かっていた。弟夫婦も子供達を連れてやって来る事になっていた。現地で落ち合うのだ。車の中で、子供達ははしゃいでいた。久し振りにいとこ達に会えるのが嬉しいようだった。彼らはまだ8歳と6歳と若く、祖母が死んだ事がピンと来ていないようだった。入院、退院を昔から繰り返していた祖母に会う機会は殆どなく、親しみも悲しみも特に感じてはいないようだった。彼らは純粋に小学校を休める事が嬉しいようであった。非日常的なお出かけ。時々会ういとこに会える。子供達は始終笑顔だった。

火葬場に着くと、子供達は弟の子供達に駆け寄り、仲良く四人でお喋りをし始めた。持参した漫画を見せ合ったり、集めているキラキラシールをお互いに交換したりしていた。葬儀社の男がそっと塔子の傍に近寄り、最後の別れを切り出した。塔子は子供達を呼ぼうかどうしようか、暫く迷ったが、結局はそのまま待合室で遊ばせておく事にした。弟もそれでいい、と呟いた。彼らは祖母との思い出などあまりなく、仮に少しはあったとしても、さほど興味もなければ印象にも残っていないようだった。塔子の子供達にとって、祖母とは近所に住む父方の祖母である。月に何度も会って、一緒にお出かけしたり、ご飯を食べたり、なにやらプレゼントを買ってくれる、彼の方のおばあちゃんが、二人にとっての祖母であるのだ。弟の子供達とて同じ事だ。義妹の両親が近所に住んでいて、子供達はそこにべったりだ。彼ら四人にとって、本当のおばあちゃんは、まだまだ元気に生きている。死んだのは、殆ど記憶にも残っていない方の、名ばかりのおばあちゃんなのだ。塔子と弟はお互いの配偶者に子供達を見ていてもらい、そっと最後の別れをした。特に声を掛ける言葉も思いつかず、ただただじっと顔を眺めるのみであった。その後、場の人に呼ばれ、閉められたお棺は炉の中へと入っていった。最後のお見送りをしていても、塔子を含め誰も泣いている者などいなかった。結局、本当に伯母達は来なかった。火の入る音が辺りを包む。塔子、弟夫婦が合掌すると、それにならって子供達も手を合わせた。目を瞑り、神妙な顔をして手を合わせる四人の子供達の姿は愛らしかった。

二時間の猶予が出来た。待合室に戻ると、他の団体が来ていた。彼らは大勢で椅子に座って喋り、数人の子供達は走り回っていた。居心地の悪さを感じた塔子は、二時間も時間がある事だし、どこか別の場所へ行こうと言った。弟夫婦も居心地の悪さを感じていたのか、それに賛同した。
「でも、どこへ行きます? この服装でファミレスとかって入れるでしょうかね?」
義妹は自分の喪服を見つめながら言った。
「うーん。別に入ってもいいだろうけど、それもなんだか落ち着かないよな」
弟は首を傾げた。
「……あのさ、もしよかったら、うちに来ない? 遠いとはいえ、ここからだと30分も掛からないし。そんなにゆっくり出来ないけど、お茶くらいなら出来るしね」
「いいねー」
「いいんですか。有難いです。子供達もその間気兼ねなく遊ばせられますね」
弟夫婦は喜んだ。塔子は彼の方を振り返っていい?と尋ねた。彼は無言で頷いた。
「じゃ、行こう」
二手に分かれて車に乗り込み、塔子の自宅へと向かった。弟達と別れ、密室になった途端、彼は怒りを顕わにした。
「なんで、あの場でじっとしていないんだ!? わざわざ家に来る事はないだろう!!」
「……えっ……? でも、居心地悪くなかった?」
「オレは、居心地なんてどうでもいいんだよ! なんで勝手な事ばかりするんだ!!」
クラクションを派手に鳴らし、乱暴に前方の車両を追い越しながら、彼の怒りは収まらなかった。後ろで子供達が固まっていた。
「こんな無駄な事を、オレにさせやがって……!」
彼はそう言い放つと、それきり無言になった。家に着いてからも、始終無言だった。リビングのソファにどかっと座って腕を組み、自分は怒っている、という態度を隠そうともしなかった。弟夫婦とその子供達が家に到着しても、彼は一言も言葉を交わさなかった。彼らもいつもの事だという風に、その態度に対して何も言わず、気にしないフリをしていた。彼はいつもいつもこんな風なのだ。年に一度か二度しか顔を合わせない間柄であるが、彼は塔子の身内に歩み寄ろうとはせず、いつも壁を作っていた。結婚して9年になるが、彼はずっとそのスタンスだった。自分が弟夫婦の家にお邪魔している時でさえ、彼はいつもそのスタンスであった。

お茶を飲んでいる間、子供達は二階の子供部屋で大騒ぎをして遊んでいた。塔子が彼にお茶を勧めても、いらない、の一点張りだった。塔子は放っておいて、弟夫婦と三人で飲んだ。ふと、本当にふと、先日見た夢の光景が脳裡に広がった。あの黒い大きな犬は死んだ。あの犬の最後を見守っていたのは、自分と弟と、そして顔の見えない誰かだった。きっと、あれは彼ではなかったのだ。あれは、子供達の内の誰かでもなく、伯母や伯父でもなく、おそらくあれは……。
「おい。そろそろ出ないと間に合わないぞ」
彼が不意にソファから立ち上がり、玄関に向かった。塔子は時計を見て訝しがった。まだ時間はある。それでも、彼が行くと言ったなら、その時が時間なのだ。塔子は諦めて立ち上がった。二階で遊ぶ子供達を呼び、また二手に分かれて車に乗った。車の中はしん、としていた。塔子も彼も、一言も言葉を交わさなかった。両親の重い沈黙を感じ取ったのか、子供達も無言だった。結局到着するまで、四人は一度も喋る事はなかった。

待合室に入って暫く待つと、係の人が呼びに来た。先程の場所に移動すると、扉が開いて、中から骨だけになった母が出て来た。子供達のハッと息を飲む音が聞こえた。塔子はまだ温かい骨を、骨壷に入れた。
「こうやって、拾ってこの中へ入れるの。やってみる?」
四人も子供がいれば、うん! やる! と意気揚々と身を乗り出す子もいれば、無言で骨を見続ける子、ぼうっと放心状態の子、様々であった。塔子は淡々と骨を拾った。
「ほら、これが喉仏。本当に仏様みたいな形をしているでしょ?」
自分でそう言いながら、この言葉を遥か昔、どこかで聞いた事があるような気がした。そうだ。あれはひいおばあちゃんが死んだ時だ。自分はその時今の子供達くらいの年齢で、生まれて初めて人の死を目にしたのだ。そして、その時喉仏の話をしたのは、まぎれもなく母だった。あぁ。時代は回っている。回っているのだ。

「沙耶ね、あの箱、プレゼントだと思ってたの」
骨を拾いながら、長女の沙耶がクスッと笑いながら塔子を見上げた。
「ん? 何の事?」
「おばあちゃんが入ってたんだね。だから皆で手を合わせてたんだね。今、わかったよ」
「えっ? 棺桶の中にプレゼントが入っていると思ってたの?」
「そう。おばあちゃんはどこか別の場所にいて、おばあちゃんに渡すプレゼントが箱に入っていると思ってたんだ。なんで皆プレゼントに手を合わせるのかなーって不思議だったんだぁ」
「で、今骨になって出て来て、やっと意味がわかったんだね」
「うん。びっくりしたぁ。人って死んじゃうと、焼かれて骨だけになっちゃうんだね。ホカホカの」
「そうだね」
沙耶の素直な発言に、塔子はそっと微笑んだ。やはり、最後の別れをさせておけばよかったかな、とチラと思ったが、もう遅い。
「人間の形してるね。ちっちゃな人間みたい」
沙耶は喉仏を見つめながら、そう言った。

弟夫婦とその子供達と別れ、車に乗り込んだ。先程とは違い、腕の中には骨壷がある。それを抱えながら、塔子は無言だった。彼も無言だった。骨壷を落としてしまいそうなほど、彼は帰り道を飛ばした。気遣う言葉も何もなく、ただ煙たがられている事だけを感じていた。人一人死んでも、こうなんだな。ここで気持ちに寄りそわなければ、一体夫婦でいる意味ってどこにあるのだろう。この腕の中にある、60年灯り続けた光が消えた重みを持ってしても、彼は変わらないのだ。きっと、これからもこのままなのだ。塔子は頭を抱え込んで叫び出したくなったが、腕には骨壷があるので頭を抱える事すら出来ない。身じろぎもせず前方を向く塔子を乗せて、静かな車内は移動を続けた。


「根なし草」1~7


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vol.105 根なし草 7

それから暫くして、葬儀社の人がやって来た。彼らは母に手を合わせ、テキパキと亡骸を車に運んだ。塔子と弟と弟の奥さんは、世話になった医師や看護師達に、最後の別れを告げた。医師は神妙な表情を浮かべ、看護師の中の何人かは目に涙を浮かべていた。お礼を述べて車に乗り込むと、彼らは車が遠ざかるまで見送っていた。もう、ここに来る事はないのだ。おそらく、永久に。山の中にひっそりと佇んでいた大きな病院が、木々の緑に囲まれて見えなくなっていく。目印の看板がなければ、そんなものがこの中にある事すら誰も気付かないかもしれない。けれど、それは確かにあるのだ。あったのだ。ここに転院してからは毎日来る必要がなくなったので、以前ほどは通わなくなってはいたが、それでもここ数年の間、度々ここを訪れていたのだ。純粋に母に会いに来る事もあれば、治療が変わる度に説明を聞きに来て、資料に判を付きに来たのだ。往復四時間の道中は、まるで旅のようだった。それも、今日で幕を閉じたのだ。

車は母の住む街へと目指した。塔子も弟も一度も住んだ事のない街だ。母は以前、塔子の暮らす街に住んではいたのだが、ちょうど塔子の最初の子供が生まれた時に、まるで逃げるようにしてその街を離れたのであった。近所に住んでいては、孫の面倒をみなければならないとでも思ったのだろう。それはもうわかりやすく、悪びれるでもなく、あっけらかんとしたものだった。やがて長い長い道中を経て、車はとある会館へと辿り着いた。
「こちらで暫くお待ち下さい」
案内されたロビーのソファに、三人は腰を降ろした。クーラーがよく効いていた。塔子達の前に、お茶が出された。三人は黙ってそれを飲んだ。暫く待つと、先程母を迎えに来た男性が再び現われ、塔子達の目の前に座った。彼は書類を出し、淡々とプランの説明を始めた。塔子はそれで構わないと告げ、弟に目をやった。弟も頷いた。塔子は必要な書類に記入し、男に渡した。彼はその書類を眺めたり、カレンダーを眺めたりしながら、火葬場に連絡を取り始めた。日時は決まり、火葬場の場所を記した書類を手渡され、三人は母のいる部屋へと案内された。

部屋の中はとても涼しかった。母は棺桶の中で眠っていた。線香の匂いがし、ろうそくの火が揺れていた。
「どなたか、お見えになられますか?」
「……あ、忘れてました。伯母に連絡を取ってみます。もしかして、今から来るかもしれません」
「わかりました。ここでは一晩中ご遺族の代わりにこちらがご遺体を看る事も出来ますが、どうしますか?」
「では、お任せします」
冷たい娘と思われようが、そんな事を構っている余裕はなかった。実際、火葬までの日にちは、火葬場の都合で中一日空いてしまったのだ。自宅へ連れて帰るにも彼の事を思うと、とてもそんな気にはなれないのだった。そもそも、母は塔子の家に暮らした事もなければ、来た事も殆どない。母とて是が非にも娘の家に来たいとは思っていないだろう。
「では、お帰りの際は声を掛けて下さい」
年配のその男が立ち去ると、三人は順に母の前に座り、線香を立て、手を合わせた。ふと見ると、ろうそくが本物ではない事に気付く。コンセントが付いていて、まるで本物のように揺らめきながら灯っているのだ。という事は、線香だけ絶やさず見ていればいいのだな、と塔子は思った。弟と義理の妹に指さすと、二人もふん、ふん、なるほど、という顔をした。便利な世の中になっているね、と三人は口ぐちに呟いた。

彼と伯母に連絡を取ると、する事もなく、三人は他愛のない話をした。義妹が途中で飲み物を買いに出て行った。弟と二人になると、塔子は声を掛けた。
「ここは見ておくから、もういいよ、帰っても。私も伯母さんが来たら帰るし」
「いや。お姉ちゃんが帰るまでは一緒にいるよ」
「今度会うのは火葬の日だけど、大丈夫? 場所の紙、コピーしようか?」
「大丈夫。さっき見て覚えたから」
義妹がお茶やジュースなどを買って戻ってきた。
「子供達、大丈夫? もうする事もないし、帰ってもいいんだよ?」
塔子がそう声を掛けると、義妹は大丈夫です、と微笑んだ。
「実家に子供達を預かってもらうので、大丈夫です。学校が終わったらおばあちゃんの家に行くのよって言っておいたので」
「そう? 本当に気にしなくてもいいからね」
義妹はにっこり微笑みながらお義姉さんこそ、気にしなくてもいいんですよ、と呟いてお茶を塔子と弟に配った。
「それより、外はびっくりするくらい暑いですよ」
「今年一番の暑さなんだってね」
「まだ、梅雨も明けてないのに。なんだか、部屋の中、クーラーが効きすぎて寒いくらいですね。ちょっと、緩めてもいいですか?」
「あぁ……。私もさっきそう思ったんだけど、緩めちゃいけないのかも。……ほら、こんなに暑い日だし。お母さんがいるし……」
「あっ! なるほど、そうですね。ごめんなさい、気が付かなくて、私」
「何も選りによってわざわざこんな暑い日に逝かなくてもねぇ……」
塔子はそう言いながら、ふと昔母が言っていた言葉を思い出した。人は、生まれた季節と真逆の季節に死ぬのだ、と確かに母はそう言っていた。他の人のは知らないが、母に限って言えば、それは本当に当たっていた事になる。

一時間ほどして、伯母が伯父を引き連れて到着した。久し振りに会う伯母は血色もよく、母の姉だがまるで妹のように若く見えた。
「私より先に逝ってしまうなんて……っ!」
母に被せていた布を取ると、伯母はわあぁっと大声で泣き始めた。静かだった部屋に、伯母の泣き声がこだました。ひとしきり済むと、伯母は不意に冷静になり、母と疎遠だった事を詫び、これまでの経緯を尋ねた。塔子は長い長い話をする気にもなれず、適当にかいつまんで聞かせた。
「私もねぇ。足の調子が悪くって。そんなに元気でもないのよ。東京の兄さんに連絡を取ったんだけど、向こうも今入院中で、とても来れそうにないんですって」
「そうですか」
「まぁ、塔子ちゃん、しっかりしてるから、全部任せておけば大丈夫よね。伯母さんがどうこうしなくても。私もほら、足の調子が悪いしね」
「葬儀は明後日で、身内だけの簡単なもので済まそうと思ってるんです」
「でも私、この足だからねぇ……困ったわ」
「……私達だけで、お見送りするから大丈夫ですよ」
「そう? じゃあ、申し訳ないけど、お任せしようかな。また、何かあったら、連絡ちょうだいね。私もするし」
伯母はそう言い残し、早々に帰って行った。伯母は、相変わらず伯母だった。何も変わってはいない。これから先、塔子から連絡する事なんて何もないだろう。そして伯母からもきっと連絡は来ないのだ。おそらく、今日この日を限りに。永遠に。

遠ざかる伯母達に手を振る。母がどこで眠る事になるのか、その場所さえ聞かなかったな、あの人達。塔子はふっと笑った。手を振る塔子の視線の先から、伯母達が消えていく。それと入れ替わりに、彼がゆっくりとこちらに近付いて来るのが見える。ようやく、来たのだ。
「なんだ、元気そうじゃん」
彼は塔子に近付き、開口一番、そう言った。
「もっとこう……泣いて泣いて大変なのかなーって思ってた。なんだ、全然平気そうじゃん」
何と答えてよいのかわからず、塔子は曖昧に頷いた。弟と、弟の奥さんと一緒にいたこの数時間とは明らかに違う、何か異物が侵入して来たような、とてつもなく次元の違う何かが紛れ込み、場の空気をかき乱されるような気配に襲われた。

今、一つの時代は過ぎ去った。それはその年一番暑い日に終わり、新たな戦いのステージへの幕開けとなった。


「根なし草」シリーズ



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vol.104 根なし草 6

梅雨の中休みなのか、痛いほどに陽射しが照りつける暑い日だった。
車を停め、塔子と弟はロビーへと駆け込んだ。まだ早朝という事もあり、院内はがらんとしていて、人影はどこにも見当たらない。広いエントランスを通り抜け、長く薄暗い廊下を早足で歩く。途中、簡易式の開閉ドアのロックを外し、通り過ぎればまた鍵を掛ける。何度かそれを繰り返した後、やっと目的のエレベーターに辿り着く。重厚なドアが閉まり、エレベーターは二人を目的の階まで運ぶ。扉が開くと、目の前にある詰所から、見知った看護師が二人出て来た。
「お気の毒ですが、一時間ほど前に……」
看護師はそこで何故か言い淀んだ。言葉を繋げられない若い看護師に代わって、今度は年配の看護師が手招いた。
「こちらにいらっしゃるから。お顔を見て上げてね。綺麗だから」
通された部屋は、数日前に母が移っていた、広い個室の部屋だった。もう、長くはないと言われた時から、母はその部屋に移されたのだ。前に来た時は母はすでに昏睡状態で、塔子がいくら呼びかけても、目を覚ます事はなかったのだった。
「お身内だけで、ゆっくりお別れしてあげてね」
年配の看護師は優しくそう言い、ドアを開けた。塔子と弟が入ると、後ろで静かにドアの閉まる音がした。とても広いがらんとした部屋に、母はいつものように眠っている。いつもと違うのは、顔には白い布が被さっているところだ。
「あぁ」
ベッドまで進める足が、うまく動かなかった。とてつもなく長い距離に感じた。それでもなんとか歩みを止めず、塔子は母の元に辿り着いた。震える手で布を拭うと、そこには美しく化粧を施した母が眠っていた。お母さん! お母さん! その叫びは喉元まで出かかった。うわぁっと泣いて縋り付きそうになった。

「安らかに眠ってる」
塔子の背後で落ち着いた弟の声がした。塔子は我に帰り、占領していた場所を弟のために空けた。弟は何も言わず、じっと長い間母の顔を見つめ続けた。心の中で何かを母に向かって語りかけているのか、それともただ静かに事態を把握しているのか、塔子にはわからなかった。弟はやがてくるりと踵を返し、塔子に向き直った。
「化粧した顔、久し振りに見た」
弟の穏やかな表情とトボケた発言に、一瞬激しく起こりそうだった慟哭のようなものが、スーッと消えてなくなっていくのを、塔子は感じた。
「ほんとだね。でも、お母さん、こんな色の口紅、付けなかったよね」
「うん。激しく違和感」
二人はくすっと笑い合った。
「ありがとう。一緒に来てくれて。私一人で先に着いていたら、どうなっていたかわからない」
「お姉ちゃんは充分にやったよ。何年も。一人で」
弟は母の顔を見つめながらそう言った。
「何も知らずに再婚して、どこかで呑気に生きている親父は当てにならないし、俺は遠方で全然当てにはならなかったしね。小さな子供二人もいるのに、よく頑張ったと思うよ」
「何をエラそうに……」
塔子はそう呟きながら、じわっと涙が出そうになるのを、慌てて堪えた。心の中で、弟に何度もありがとう、ありがとう、と呟いた。その言葉だけで、その労いと償いの気持ちだけで、私は頑張った甲斐があったよ、と弟に合掌したい気持ちになった。たくさん、たくさん、恨んだ。父を。母を。周りの幸せなママ友を。舅を。姑を。義姉を。彼を。自分を。母より早く、自分が死んでしまいたいほど悩んだ事もあった。それらの混沌とした黒く薄汚れた感情が、弟の言葉で全て報われたように思えた。終わった。やっと終わったのだ。

コンコン、とどこか遠慮気味なノックの音が背後からした。二人が振り返ると、そこには義妹が立っていた。弟が立ち上がり、大股で歩いてドアを開けた。
「来てくれたのか」
「うん。子供達は大丈夫だよ。私の実家に預かってもらうから」
義妹は静かな声でそう言い、塔子にそっと近付いて来た。
「お義姉さん……この度は……ご愁傷様です……」
深々と頭を下げる義妹に、塔子は微笑みながらその肩を抱いた。
「大丈夫だよ。私達二人だけしかいないし、そんなに硬くならなくても。それより、わざわざ来てくれたんだね。どうもありがとう。遠かったでしょ?」
「いえ、そんな……」
「母に会ってくれる?」
義妹はこくんと頷き、母に近付いた。弟の横に寄りそうようにして、義妹は母と対面した。お義母さん……と小さく呟き、義妹はハンカチで涙を拭った。大丈夫だよ、というように、弟は義妹の背中を優しくトントンと叩いている。それは心温まる、素敵な夫婦愛の縮図のように映った。

暫くして、トントンと再びドアをノックする音がした。はい、と塔子がドアを開けると、歳の若いあまり見覚えのない看護師が立っていた。
「この度はご愁傷様です……」
彼女は神妙な顔をして、そっと頭を下げた。塔子も静かに頭を下げた。
「あの……葬儀の手配などは、もうお済でしょうか?」
「あ……ごめんなさい。まだです……」
「いえ。突然の事なので、手配されてらっしゃらなくて当然ですよ。あの、これ、こちらでお渡している葬儀社の一覧なんです。よかったらどうぞ」
彼女はそう言って、塔子にファイルを手渡した。
「わざわざすみません。ありがとうございます」
塔子はそう言って受け取った。
「ここに記載されている葬儀社以外でも、別に構いませんよね?」
「はい。それはもちろん大丈夫です」
歳若い看護師はそう言って穏やかに微笑んだ。そして来た時と同じように静かに去って行った。
三人だけになると、ファイルを開けて、葬儀社の検討を始めた。身内だけで静かに送る事に決めていたので、大手の葬儀社は不向きであった。家族葬で充分であったので、彼女が渡してくれたファイルに載っているところは、どこも自分達とは合っていないような気がした。
「私、前からちょっと調べてたんだけど……」
塔子はスマホを出して、検索した。
「こことか、よくない? こじんまりとしたところで」
塔子がスマホを差しだすと、弟は画面をスクロールしながらうん、と呟いた。
「大層にするわけじゃなし。俺もここでいいと思う」
「だよね。じゃ、ここに連絡してみるよ」
塔子は電話を掛けた。話は驚くほどトントン拍子に進み、二時間後に引き取りに来る事になった。
「……なんだか、あっけないね。今から出て、二時間くらいで着くって。お母さんの家の住所と今私達がいる場所があまりに離れているから、びっくりしていたみたい」
電話を切って塔子がそう言うと、二人は無言で頷いた。やがてハッとした顔になって、義妹が突然立ち上がった。
「お義姉さん、お腹、空いてませんか? 朝から何も食べてらっしゃらないでしょ」
「うん……でも全然食べる気がしないし」
「ダメですよ。これから葬儀社さんが来られたらますます忙しくなるんだし。今のうちに何かちょっとでも食べておかないと。ね? 私、何か買って来ます」
「ありがとう、かなちゃん。ホントにいいのかな」
「いいんですよ! 適当に何か、見繕って来ますね!」
義妹が出て行くと、弟がすっと立ち上がった。
「俺も行って来る。まだ売店も開いてる時間じゃないし、外は山ばかりで店を探すにも大変だし」
「そうだね。行ってあげて」
弟が後を追って行ってしまうと、急に部屋の中がしん、となった。部屋には生きている人が一人。亡くなった人が一人いた。塔子はファイルやスマホなどを小さなテーブルの上に置いて、母に近寄った。
「やっと、二人きりになれたね」
塔子は微笑みながらそう呟いた。
「……あのね。何か言いたい事があるような気がするんだけどね。何だったのかな。もう、思い出せないよ」
塔子の囁きが聞こえるはずもなく、母はその場でじっとしていた。
「いっぱいいっぱい言い残した事があるような気がするんだ。でも、それが何だったのか、全然思い出せないの。不思議だね」
塔子は椅子を持って来て、母の横に座った。
「……でも、お互い、頑張ったと思うよ。お母さんも、私もね。納得のいかない人生を。なんとかやり切ったよね……」
塔子は頬杖をついて、母の寝顔をじっと見続けた。終わったのだ。これで本当に終わりなのだ。これから、何かが変わるのだろうか。
「……よかったね、お母さん。もう、苦しまなくていいんだよ」
そう呟き、塔子は白い布を母の顔に被せた。

ゆっくりおやすみ、お母さん。後の事は全部塔子に任せて。いつものように、ゆっくりおやすみ。


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vol.103 根なし草 5

その電話が来たのは、まだ夜も明けない早朝の事だった。
その時に限って、塔子は深い眠りについていた。皮肉なもので、この数日間、眠れない日々が続いていたのだ。気を緩めてはいけないと自らに言い聞かせてでもいるように、気を休めるのが何故だか恐ろしかったのだ。病院からは何度も電話が入った。母が長くはないのだ。眠れない日々が続く中で、それは一瞬の気の緩みだった。塔子は完全に眠りに落ちていたのだ。

不思議な夢を見ていた。
小雨の降る中、一人歩いていた。薄暗い夕方だった。アスファルトの窪みには、既に水溜りが出来上がっていた。どこを目指しているのかわからぬまま、塔子は歩みを進めていた。ふと気が付くと、前方に大きな水溜りがある。中に何かがいる。近寄って覗いてみると、そこには溺れた母が浮かんでいた。目は半開きになり、口もぽっかりと開いている。顔は異様に白く、半開きの目は虚空を眺めていた。まるで死んでいるようであったが、母は確かに生きていた。塔子は必死になって母を水溜りから引きずり出し、肩に背負って歩きだした。
場面は変わり、塔子は見知ってはいるが、普段あまり行かない公園の中にいた。既に雨は上がっていたが、空は一面灰色のままだった。塔子は公園の広場に座っていた。目の前には真っ黒な犬がいる。犬は横たわり、荒い息をしている。あぁ。この犬はもうすぐ死ぬのだな、と何故か塔子はそう思った。ふと、その犬の臨終を見つめているのが、自分一人ではない事に気付き、塔子は顔を上げた。自分の正面には弟がいる。そして、もう一人、誰かが犬を見ている。そのもう一人が誰なのかはわからない。三人に囲まれた黒い犬は、今、静かに死んでいくのだ。

「おい、起きろ」
不意に彼に起こされ、塔子は我に返った。眠れない日々が続き、うっかり眠ってしまっていた自分に気付き、飛び起きた。
「病院から、電話だぞ」
彼の言葉に、塔子は確信した。リビングへと入り、恐る恐る受話器に手を伸ばした。
「はい。鈴木です」
「こちら○○病院です。お母様、危篤状態になられました。今すぐこちらに来て下さいますか?」
「わかりました。すぐお伺いします」
塔子は電話を切り、時計を見た。4時半。まだ外は薄暗い。今から出掛けて、バスや電車はあるだろうか。それより、何時に帰れるかわからないから、子供達の居場所を確保しなければ。塔子が焦っていると、彼がのんびり部屋から出て来た。パジャマから服に着替えていた。
「お母さん、危篤だって」
塔子が彼にそう言うと、彼はそっかぁ~と間延びした返事をした。
「じゃ、オレ、もう目が覚めちゃったし、今から仕事に行って来るよ」
塔子は我が耳を疑った。
「えっ? 何言ってるの? 今から私、病院へ行かなきゃいけないんだよ? お母さん、持ち直したところで、今日は何時に帰れるかわからないよ。子供達、どうするの?」
「え~~。そんな事、オレに訊かれても……」
彼はそう言いながら、塔子を押しのけて玄関へと向かい、靴を履き始めた。塔子は慌てて、彼の袖を掴んだ。
「ちょっと! しっかりしてよ! 仕事に行くのは構わないけど、子供達、どうするの?」
「はぁ~~。わかったよ、煩いなぁ。じゃ、今からオレの実家に連れて行ってやるから、起こせよ」
塔子は慌てて子供達を起し、手荷物の準備を済ませ、三人を送り出した。バタバタしていてまるで気が付かなかったが、彼は危篤と聞いても一度も大丈夫か?という心配の言葉もなければ、オレも一緒に行くよという気遣いの言葉もなかった。嵐のように過ぎ去った後で、今更ながらに不信に思った。だが、それをじっくり考えている暇はない。塔子は弟に電話を掛けた。
「お母さん、危篤だって」
「わかった。今から行くよ。車で行くから、そっちに寄ってから行くようにするよ」
「でも、遠回りになるよ」
「だって、まだ電車とか動いてないでしょ。とにかく落ち着いて。焦ったって二時間以上は掛かるんだし、間に合わないなら間に合わないで仕方ないよ。それより、子供達はどうするの。連れていくの?」
「ううん。向こうの実家に連れて行った。預かってもらう。まだ行ってみないと状況もわからないし」
「じゃ、小学校に休みの連絡を入れないと。まだ誰もいないだろうから、暫くしてから掛けて」
弟の現実的な言葉に、塔子は次第に落ち着きを取り戻した。
「うん……。うん、そうだね。後で電話を掛ける」
「これから用意して、すぐに出るよ。取り敢えず、お姉ちゃんもゆっくり落ち着いて準備して。高速で行くから一時間ちょっとでそっちに着くと思う。また近付いたら電話するから」
「うん。どうもありがとう」
受話器を置いて、塔子はふぅーっと長い息を吐いた。頭が真っ白だったのが、弟の言葉で徐々に現実に戻ってきた。そうだ。タクシーを飛ばしたって結局は二時間は掛かるのだ。その二時間の間に母が逝ってしまったとしても、これはどうしようもない事なのだ。運命を受け入れよう。塔子は大人しく弟を待つ事にした。身の回りの準備を済ませ、学校へ連絡を入れる。余った時間で洗濯物を干した。ちょうど干し終えたところで連絡が入り、塔子は弟と合流した。
「遅くなってごめん。乗って」
「うん。ありがとう」
「やれるだけの事は充分したから。間に合わなくても、自分を責める事はないと思う」
「うん……。そうだね……」
弟の言葉が有難かった。梅雨の中休みなのか、太陽が車内を容赦なく熱した。クーラーを掛けていても、気温はどんどん上がっていった。
「今日は暑くなりそうだね」
「ほんと。向こうはどうだろう。山奥だから涼しいかな」
塔子と弟は何気ない話をポツポツとした。殊更、母の話題には触れないようにした。
「会わない時は何カ月も会わないのにね」
やがて弟がクスッと笑いながらそう言った。
「ほんと、そうだね。会うとなると続くよね」
つい先日、弟とは会ったばかりだった。一緒に、母の墓地の契約をしてきたばかりなのだ。
「やっぱり、ああいうのってさ。生前にしない方がよかったのかな。契約したばかりで危篤の連絡が来るなんて」
塔子が苦笑いでそう言うと、弟は真顔で違うだろ、と言った。
「逆に、よかったんだよ。行き先がない方が不安だろ。ちゃんとしておいた方がよかったんだよ」
「でも、タイミング、良すぎない?」
「まぁ、確かに」
二人は同時にフッと笑った。笑うしかなかった。

梅雨の晴れ間の陽射しは強く、その日一日が暑くなりそうな気配を投げかけていた。ほぼ誰もいない道路を走り抜け、二人は病院へと急いだ。やがて緑の木々が鬱蒼とした山々を越え、目指す病院が見えてきた。


「根なし草」1,2,3,4



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vol.102 母の入院生活 34

荷物の整理を済ませると、塔子は近くにあった簡易の椅子を持って来て、母の枕元に座った。母は神妙な表情を浮かべたまま、黙って天井を見ていた。
「疲れたでしょ。大丈夫?」
塔子がそう声を掛けると、母は訝しそうにゆっくりと首を傾けた。
「何?」
「疲れたかって訊いたの」
「聞こえない」
「……うん。大丈夫みたいだね」
思わず苦笑いをしながらそう言うと、母はむっつりと硬い表情を崩さないまま、じっと塔子を眺めた。目の焦点が定まっていない、独特の視線がそこにはあった。母は要介護5の半身不随であるが、認知症ではない。脳梗塞になった後からまるで認知症のような症状が出た事はあったが、それは日によってまちまちであった。耳は確実に遠くなり、元々糖尿病で悪かった目は、益々悪化したようだった。視点の定まらないその目はいびつで、見る者をどこか不安にさえさせるのだった。

「……ここ、遠かった」
「えっ?」
だんまりを決め込んでいた母が不意に喋ったので、塔子はびっくりした。そして、どう言葉を掛けるべきか迷った。そうだ。ここは遠い。母の住む町からも、塔子が住む町からも、今までいたリハビリ専門病院があった町からも、とても遠い場所までやって来たのだ。遠回しに嫌味を言われているような気がして、今度は塔子が黙り込んでしまった。私だって、一生懸命探したよ。子供達に不便な思いをさせて、自分の体調がどんどん悪くなろうとも、あなたの次の行き先を探す事を一番に考えてきたよ。その努力を蔑ろにされたような気がして、塔子は腹立たしさを覚えた。どれだけ足を引っ張られようと、それをおくびにも出さずにやって来たというのに。どれだけ面談に行っても落とされ、やっとの思いで見つけた場所なのに。やがて腹立たしさは消え去り、ただただ自分の力不足をしみじみと感じ、惨めな気分になった。私がもっとしっかりしていれば、事態は違ったのだろうか。自分の役不足だったのであろうか。自分の不出来の具合を周りと比べてみようにも、30代子育て中のママ友の中で、自分と同じ立場の人は誰一人見当たらない。親の介護はおろか、未だに親に頼って子供を預かってもらっていたり、たまに小遣いをもらっていたり、体調不良の場合には親に家に来てもらって家事や子育てを代わってもらったりしているような人達ばかりだ。これでは比べようがない。そもそも次元の違う話なのだ。情けなさに塔子はぐっと涙を堪えた。母だって、不安なのだろう。勝手に話を進められ、見も知らぬ場所に連れて来られたのだから。嫌味の一つも言いたくなるだろう。仕方がない。

やがて徳井が数名の人を連れて病室に入って来た。
「これから、田中さんには診察を受けて頂きます。鈴木さんは入院の手続きがありますので、こちらに来て下さい」
病室に入って来た医師や看護師に頭を下げ、塔子は徳井に連れられて、病室を後にした。またあちこち歩かされるのかと構えていると、徳井は病室のすぐ横の詰所へと入っていった。どうやら、手続きはここで行うらしい。勧められた椅子に腰かけると、徳井は淡々と抑揚のない声で説明を始めた。時折ここにサインを、ここに判を、などと中断する以外は、声のトーンはいつも穏やかだが一本調子であった。言われるがまま住所や氏名を記入したり判を付いたりしていると、やがて先程の医師や看護師達が詰所に入ってきた。
「こちらが田中さんの担当医師の○○です。そして、こちらが看護師長の△△です」
徳井が紹介をすると、年配の医師は軽く頭を下げた。どう見ても、50代の母より年配のように見えた。看護師長は40代後半くらいの化粧の濃い女性であった。塔子が頭を下げると、にっこりと微笑んだ。それから二人の若いスタッフがやって来て、彼らも自己紹介をした。一人はリハビリ担当のスタッフで、一人は言語障害のトレーナーだった。
「全員揃いましたので、会議を始めたいと思います」
徳井がそう言い、会議が始まった。まず初めに以前の入院先から持ってきた書類や薬などを出すように言われた。塔子がそれらを差し出すと、彼らはそれらを調べ、台帳やカルテなどに書きつけた。そういう事をしているうちに、不意に塔子は後ろから声を掛けられた。
「田中さんの娘さんですか?」
「はい」
「○○リハビリテーション病院というところからお電話が入っていますよ」
一瞬、場が静まりかえった。塔子を含め、皆はお互いの顔を見まわした。一体、なんなのだろう。塔子は立ち上がった。
「すみません。電話に出てもいいですか」
どうぞ、という言葉に押され、塔子は詰所の保留になっている電話に手を伸ばした。一体、何事だろう。何か忘れ物でもしただろうか。否、それはない。出る時あんなに何度も確認したではないか。
ふと、嫌な予感が胸に広がった。まさか。ありえない。まさか、そんな事が……。
「……はい。お電話かわりました。鈴木です」
「あ。田中さんの娘さんですか? こちら○○リハビリ病院ですけど」
塔子の予感は的中した。この声。受話器の向こうから聞こえる声。やはりあの子だ。
「私の出勤前に退院されたようで、入れ違いになったみたいで」
「……そうですね」
それがどうしたというのだろう。声の主は母の担当であった、塔子と同じ歳くらいの看護師からだった。この子には、苦労されられた。病院で出会った時には何も言わないのだが、いつも帰宅すると必ず電話を掛けてくるのだ。用件は準備する物などの連絡事項が主で、その時に言ってくれればいいものを、二度手間三度手間は日常茶飯事であった。二、三日に一度は顔を出していたのにもかかわらず、電話がない日は何故か用件を大きくメモに書いて引き出しに貼っていたりするのだった。どれも他愛のない内容ばかりなので、面と向かって言えばいいのに、変わった人だな、と思っていたが、まさかここまで電話してくるとは。
「担当の私がいなかったので、おそらく他の看護師や看護師長ではわからなかったと思いますが、まず、○○の薬はこうして……それから△△の薬はこうで……」
彼女は突然、薬の説明を始めた。母はたくさんの薬を飲んでいたので、それは延々と続いた。この子は、一体、何を言っているのだろう。病院が変わったのだから、当然薬だって見直して、新しい物に変わる。ちょうど今、その確認を全員でしていたところだ。塔子はそれを言おうとして口を開きかけたが、止めた。言わせておこう、と何故か思ったのだ。きっと彼女だって馬鹿ではないはずだから、自分のしている行為がわかっているはずだ。もう、それらが必要ではない事を、認識しているはずなのだ。それをわざわざこうして電話を掛けてくる。これは電話を掛けるという行為そのものに、きっと意味があるのだ。

小さな嫌味かもしれない。あんなに世話してやったのに、私がいない内に転院して行った! プライドが傷ついたのかもしれない。否、そうではなく、元々の彼女の性格が、成す業なのかもしれない。面と向かって、人とコミュニケーションが取れないのかもしれない。入院してすぐの頃、彼女は誤って母の指を怪我させてしまった事がある。その報告さえ、彼女自身からではなく、他の看護師から聞かされたのであった。その看護師は丁寧に詫びてくれたが、結局彼女からは何の謝罪もなかったのだ。しかし、塔子はその行いに対して、彼女を責めた事は一度もない。大人なのに変わった子だな、と思っただけだ。彼女はそれからも母が手がかかる内容の話はいつも塔子に愚痴のようにしてきたが、結局大事な事は何一つ言わなかったのだ。

「……これで以上です。大丈夫ですか? 覚えられますか? ちゃんとメモを取りましたか?」
ようやく彼女の長い話は終わったようだった。メモなんて、取るはずもなく、そんな長い話、覚えられるはずもなければ、覚える必要すらなかった。きっと、彼女だってわかっているはずなのだ。自分が不必要な事をしている事を。それでもおそらく、止められないのだ。小さな嫌味を、電話での嫌がらせを、止められないのだ。
「大丈夫ですよ。ちゃんと取りましたよ」
塔子は相手を安心させるために、わざと優しく声をかけた。
「○○さん、本当はちゃんと顔を見て言いたかったけど、非番でいらっしゃらなかったから、今言いますね。長い間、母の面倒を看て頂いて、ありがとうございました」
塔子がそう言うと、暫く彼女は黙りこんだ。ヒットだ、と塔子は感じた。おそらく、彼女は私からこの言葉が欲しかったに違いない。彼女はごにょごにょと母がどれだけ手のかかる人だったか、という話をして、やがて静かに電話は切れた。塔子はふうーと長い溜め息をついた。おそらく、もう、大丈夫だ。これからは電話が掛かってくる事はないだろう。塔子は確信した。
承認なのだ。きっと、彼女は認めてほしかっただけなのだ。そして、今、彼女はやっと満たされたのだ。


その日を境に、母はその新たな病院で過ごす事になった。それは数年続き、母が亡くなるまで続いた。


(母の入院生活 全三四話 完)



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vol.101 万華鏡

あれは何年前の事だろうか。
塔子と弟は、ある日母に連れられて、突然山へとハイキングに行く事になった。最寄の駅から電車に乗れば、数駅で目当ての駅に着く。通勤時間以外は人も疎らな電車も、殊、紅葉の季節になると大勢の観光客でごった返す。山といっても舗装されたアスファルトの道が頂上まで続いている簡単なハイキングコースで、塔子達は観光客と共にその道を歩いた。登り始めは出店も多く、名物の珍菓などを売る店がずらりと並ぶ。中には古き良き玩具などを並べる露店もあり、覗いてみれば竹トンボやダルマ落としやコマ、それにピカピカと輝く大きな指輪などが並んでいた。ルビー。エメラルド。サファイヤ。もちろんプラスチック製の玩具の指輪であるが、幼い塔子の目には本物と偽物の区別などつかない。否、それが玩具だとはわかってはいるが、子供にとって重要なのはそれが本物かまがい物かと分ける事ではなく、ただ純粋にその玩具の惚れ惚れする美しさのみであった。その光に吸い寄せられるかのように、塔子は玩具屋へと近付いた。間近でその美しさを鑑賞していると、母と弟が塔子がいない事に気付いて近寄って来た。

「あぁ! これ、懐かしい!」
母が巻物のような物を指差して言った。
「知ってる? これ、万華鏡っていうのよ」
5、6個ほど並べられていたその巻物のような物の一つを取り上げ、母が塔子に手渡した。
「この穴から、中を覗いてごらん」
母に言われるがまま、塔子は中を覗いてみた。中には不思議な形をした模様が広がっている。
「明るい方に向けた方が綺麗よ。それをゆっくり回して……」
塔子は手首を曲げ、ゆっくりと万華鏡を動かしてみた。形が変わる! 先程までは小さな花のように見えた形が、いきなり大きく広がり、まるで雪の結晶のような複雑な模様を作っている。塔子は夢中になって万華鏡を回し続けた。気に入った形が出来上がってうっとりと見入っていても、ちょっとでも動いてしまえばそれは消えてしまう。もう二度と同じ模様は出て来なかった。

「買ってあげようか。どれがいい?」
母の言葉に、塔子はハッとして万華鏡から目を離した。母がニコニコしながら塔子を見ている。
「えっ。いいの?」
「いいよ。綺麗でしょ、それ。中のビーズも表地も微妙に全部違うから、気に入った物を選べばいいよ」
母の言葉に塔子は天にも昇る気持ちになった。確かに、全てが赤い生地で覆われているが、模様は全部違う。大体が花模様であるが、花の色や形、デザインなどが少しずつ違った。中を覗いてみても、確かにちょっとずつ色が違う。塔子は散々迷って、気に入りの物を一つ選んだ。弟はだるま落としを買ってもらった。

「ありがとう」
塔子は母に礼を言って、買ってもらったばかりの万華鏡を抱きしめるようにして歩いた。嬉しくて嬉しくてならなかった。時折袋から出して、内緒でそっと中を覗いてみた。そこには期待通りの伸びやかで繊細な形が現われる事もあれば、くしゅっと縮こまった期待外れの形が現われる事もあった。徐々に道の勾配が急になるにつれ、三人は疲れてきた。頂上まで、まだ半分はあるはずだ。
「ちょっと早いけど、休憩にしよう」
母はそう言い、脇道から下へ降りて行った。塔子と弟が続くと、綺麗な小川が流れている一角にちょうど休憩にはよさそうな場所があった。川沿いの大きな石を少し動かして地面を平坦にすると、母がその上に敷物を広げた。塔子と弟が靴を脱いでその上に座ると、母は手提げ鞄から重箱を取り出した。
「お昼ご飯にはまだ早いけどね」
そう言いながら母が蓋を開けると、中にはおにぎりや卵焼き、唐揚げやウィンナーなどがぎっしりと並んでいた。
「わー!」
塔子と弟は歓声を上げ、パチパチと拍手をした。美味しそうな弁当を前に、塔子も弟も疲れが吹き飛び、笑顔になった。
「川で手を洗っておいで」
母の言葉に、塔子は弟と共に川に駆けだした。さらさらと流れる小川は清く、手に触れるときりりと冷たかった。遅れてタオルを持った母が近付いてきた。
「冷たいね」
母が手を洗いながら塔子に向かって笑った。
「でも、気持ちいいよ」
塔子が言うと、弟もうん、うん、と頷いた。三人は元の場所に戻り、少し早めのお昼ごはんを食べた。外で食べるおにぎりは美味しく、空は青く澄み渡り、小川のせせらぎは夢のように心地良かった。三人は皆、笑顔だった。気持ちが満ち足りていた。食事を終え、暫くそこで休憩すると、三人は再び頂上を目指して歩き出した。

残り半分の道は急な坂道だった。道幅は段々狭くなった。それでも塔子は楽しい気持ちで歩く事が出来た。なにしろお腹は満たされていたし、手には万華鏡がある。何も怖いものはなかった。やがて頂上に着くと、そこには神社があった。三人はお参りをして、眼下に広がる素晴らしい風景を眺めた。これだけの距離を登ってきたのか。街並みは遠く、まるで小人の国を見下ろしているような気分になった。弟がやっほー、と叫んだ。

それは幼い塔子にとって、最高の一日だった。全てが完璧であった。それから何日か過ぎても、塔子はその日の楽しさが忘れられずにいた。万華鏡を手に取り、あの日の事を思い出すのだ。三週間ほど過ぎた頃、塔子は母にもう一度山へ行こう、と誘ってみた。あの日の楽しさを再現してみたかったのだ。母は気がのらないのか、浮かない顔をした。それでも塔子は諦めず、何度も行こうと言った。母は根負けしたのか、渋々頷いた。

たった三週間で、山は様変わりしていた。観光客はいるにはいるが、前ほどの賑わいはない。空気も風もガラッと変わっていた。それはキンと冷たく、山から吹き下ろす北風は強いものになっていた。寒さで震えながら、楽しい会話もなくただ黙々と三人は山を登った。塔子の急な提案で弁当すら作る暇がなかった。目についた定食屋で、途中昼食を食べた。温かいそばだったが、あの日の冷たいおにぎりほどの美味しさは感じられなかった。母はずっと無言だった。山登りに嫌気がさしていたのか、塔子の我儘に怒っていたのか、それとは関係ない他に何か気になる事が出来たのか、原因はわからない。ただ、母が不機嫌な事だけはわかった。店を出た後も母は黙って前を歩いた。塔子はその背中を見つめながら歩いた。弟もおとなしかった。母の背を見つめながら、塔子はある事に気付いた。そうか。あの日、楽しく、完璧な一日だと感じたのは、母が笑っていたからだ。母が、母自身が楽しそうにしていたからだ。確かにあの日は晴れていて、もっと空気も暖かく穏やかだった。こんなに寒くはなく、灰色の空でもなかった。それでも、もし、あの日がこんなに風が強く寒かったとしても、空が灰色であったとしても、母が笑っていてくれたならば、それは最高の一日であったはずなのだ。

母の背を見つめながら歩く。ずっとそれだけを見ながら、歩く。寒く会話もないモノクロームの風景の中で、塔子は幼いながらに心に誓った。もう二度と、楽しさをもう一度繰り返すのは止めようと。それはその時に完結してしまうもので、繰り返したりはしないものなのだと。逆に、美しかった最高の思い出を、悲しい思い出に変えてしまうものなのだと。楽しかった山の思い出を自分の不注意で陰気なものに塗り替えてしまった事を、塔子は深く悔やんだ。家に帰り、万華鏡を手にとってみても、あの日の煌めきは二度とは戻らなかった。


一話読み切り



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vol.100 母の入院生活 33

介護タクシーはゆっくりと、だが確実に母の次の行き先へと進んでいった。見慣れた景色が段々と遠退く。母はしばらく神妙な顔をしていたが、やがて目を閉じて眠り始めた。今まで、何度介護タクシーを使って、母は移動した事だろう。面談の度に手配をし、行き帰りを車中で過ごした。そして結果は落ち続けた。でも、やっとそんな日々も今日でおさらばだ。ついに次の行き先を見つける事が出来たのだ。今までの近距離移動と違って、今回は長旅になる。眠っているうちに着いてしまった方がいい。塔子は母の寝顔を眺めながらぼんやりとそう思った。

「かなり遠い移動ですね」
タクシーの運転手が不意に声を掛けてきた。
「こんな長距離移動、この仕事を始めてから、初めてだな」
「そうですか」
塔子はそう言いながら、運転手を窺った。今回の運転手は、かなり若い。今までは初老の人が多かったのだが、今日来た人は塔子と同じ30代くらいの男だった。
「色々回ったけど、落とされたクチ?」
「そう。落とされたクチ」
くだけた彼の口調に、塔子はふっと笑った。軽口を叩いても、どこか憎めないような雰囲気を持つ人だ。
「まぁ、よかったじゃん。行き先が決まって」
男はのんびりと運転しながら、不意に後ろを振り返って母の顔を一瞬見た。
「お母さん?」
「そうです」
「いくつ?」
「まだ、50代なんですけど。半身不随で、動けなくなっちゃって」
「そうなんだぁ。オレの親より全然若いのに。オレの親なんて、まだまだピンピンしてるよ。最近、全然会ってないけど。オレ、一年くらい前にこっちに来たばかりなんだよね。生まれも育ちも東京なの」
「へぇ。そうですか」
「気ままでいいよ。独り暮らしも。あっ! あの店!」
男は一軒の大手チェーン店のうどん屋を指差した。
「あの店、オレの家の近所にもあるんだけどさ。よく行くんだ。結構美味しいよ。知ってる?」
「あー……行った事ありますよ」
「オレ、多分、全種類網羅してるから」
男はそう言ってハハハと笑った。屈託のない人柄に、徐々に塔子の緊張は解れた。目的地までの長時間があっと言う間に感じるほど、運転手と塔子の会話は弾んだ。男は東京での話を語り、塔子は子供達の事を語った。男が失敗談を語れば、塔子もまた自らの失敗談を語った。二人は声をあげて笑った。

こんなに笑ったのは、一体何年振りだろう? ふと塔子はそう思った。これを言えば怒られるんじゃないか。これを言えば不機嫌になるんじゃないか。これを言えば馬鹿にされるのではないか。いつの間にか、ビクビクと予想を立てながら彼や彼の両親と会話をするのが当たり前になっていた塔子に、その運転手との会話は新鮮だった。まるで、目の前の霧が一気に晴れたような爽やかさであった。そうだ。いつかの自分は、こんなだった。必要以上に相手の反応を気にせず、自然に会話をしていた事もあったのだ。それは、一体どのくらい前の話だろうか。彼と結婚する前? 否、彼と出会う前? 両親が離婚する前? 母がお金の無心をする前? 父が再婚する前? 母が塔子や弟を裏切って内緒で恋人を作っていた前?

答えは出なかった。そもそも、それに答えなどなかった。きっと、少しずつそれは塔子に近付き、すっぽりと塔子自身を包み、すっかり塔子の一部として共に成長してきたのであろう。それはもう予め塔子に備わっていたものだったかもしれない。

やがて風景は様変わりし、三人を乗せた車は薄暗い山中を走り始めた。冬枯れた侘しい木々の枝。薄灰色の空。行き交う人などどこにもいない殺風景な道路。沈み込みそうになる景色とは対照的に、車内は明るい雰囲気に包まれていた。二人の笑い声が響いても、母はずっと眠っていた。目を閉じていただけなのかもしれないが、塔子はあえて確認をしなかった。眠っているなら、眠っている方がいい。目覚めたら、そこは新天地だ。

最後の急な登りを、タクシーはゆっくりと慎重に上った。無駄に広いエントランスの前で車を停め、塔子は礼を言ってタクシー代を払った。男は領収書を渡し、母を車から下ろして移し替える車椅子を探しに行った。塔子は車椅子を押しながら、ロビーの中へと入った。
「本日、入院する事になった田中と申しますが」
塔子が受け付けに声を掛けると、前にもいた事務の初老の男が紙を持ってやって来た。塔子に記入の指示をした後、内線でどこかに連絡をした。やがてタクシーの運転手が病院の車椅子を持ってやって来て、母を移し替えてくれた。
「じゃあ。僕はこれで」
男は笑顔でそう告げた。
「ありがとうございました。いっぱいおしゃべり出来て、楽しかったです」
「あっと言う間だったよね。帰りが辛いなー。一人だと、退屈なんだよね」
男はそう言って笑いながら、軽く手を振って去って行った。
「鈴木さん。お待たせしました」
背後から名前を呼ばれ、振り返るとそこには面談をした時にいた徳井が立っていた。
「あ、徳井さん」
「お疲れ様でした。遠かったでしょう。まずはお母様の病室に案内しますね。それからドクターや担当の看護師との打ち合わせがあります。その後、事務室に移って頂いて、入院手続きとなりますがよろしいですか?」
「はい。よろしくお願いします」
「では、行きましょう」
徳井が先頭に立ち、その後を車椅子を押しながら塔子が続いた。たくさんのソファが並んではいるが人っこ一人いないロビーを抜けると、やがて左手に中庭が見える。長く広い廊下を歩いて行くと、やがてアコーディオン型の大きなドアが見えた。それはロック式になっている。徳井はそれを外し、塔子に振り返った。
「ここは、途中で何度かこのような形式のドアがあります。このロックを外せば簡単に開きますが、通った後は必ずまた閉めてロックを掛けて下さい」
「……わかりました」
簡単なロックだった。してもしなくてもよいような安易な作りであった。ドアの横には掲示板が掛けられ、徳井の言った内容そのままの注意書きがしてあった。
「ここは、認知症の方専用の病棟もありますから。面倒ですが、お願いします」
塔子と母を通しながら、徳井はそう言った。なるほど。そういう理由なのか、と塔子は納得した。自分の親のように全く身動きが取れない人ばかりではないのだ。逆パターンもあるのだ。つまり、認知症であっても、体は丈夫でどこへでも自由に行き来が出来てしまうのだ。誤って、うっかり外へ出てしまう危険性も、確かにあるだろう。ロックを掛け、しばらく歩くと、再び同じような蛇腹のドアが廊下の途中に付けられていた。三人はそこも通り過ぎ、ロックを掛けた。そこを通り過ぎると、認知症専用病棟があった。談話室らしい広い空間の横の廊下を歩いて行く最中、皆同じスウェット素材のパジャマを着た人々が、一斉に塔子の方へ視線を向けた。なんだかいたたまれないような気分になり、塔子は足早にその場を通り抜けた。

「ここで三階に上がります」
重い鉄製のドアを開けると、ひっそりとエレベーターがあった。やがて三階に着くと、そこには同じような形の、同じような広さの病室がずらっと並んでいた。中の様子を垣間見ると、そこには寝たきりと思われる母と同じような症状の老人達が四人で一つの病室を使っていた。
「田中さんの病室はこちらです」
徳井は詰所の目の前にある病室に案内した。
「担当の看護師を呼んで来ますので、しばらく荷物の整理をしてお待ち下さい」
徳井がそう告げて去ってしまうと、塔子はどっと疲れを感じた。なんて広い病院なのだろう! 母の病室に来るだけで、こんなにあちこち歩かされるとは。果たして次回、迷子にならずにここまで辿り着けるのだろうか。自信がない。母の手荷物を開きながら、塔子は真剣にそう思い悩んだ。


「母の入院生活」シリーズ 1~32



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vol.99 母の入院生活 32


塔子は携帯に手を伸ばした。呼び出し音がしてしばらくすると、はい、というぶっきらぼうな声が聞こえた。
「もしもし? 私だけど」
塔子は壁にもたれたまま、やや早口で切り出した。心臓がドキドキした。
「何?」
電話の向こうの彼も、塔子の早口が移ったかのような喋り方だった。母の病院から電話があった事。出向かなければならない事。自分は行けそうにない事。大変申し訳ないが、代わりに行ってもらえないか、と塔子は切り出した。熱で頭が割れそうに痛かった。
「それって、今日じゃないとダメなわけ?」
彼は大きな溜め息をついた後、そう答えた。
「別に急ぎじゃないなら、元気になってから自分で行けばいいんじゃない?」
「……それはわかってる。わかってるよ。出来そうにないから、電話したんじゃない」
何も、好き好んで彼に電話をしたわけじゃない。出来る事ならば、塔子だって全部自分でしたい。母に関する事柄も、子供達に関する事柄も、全て。本音を言うなら、彼に関わってもらいたくもない。今までだってそうだったのだ。彼は一切の事柄に無関心であったのだ。今更、些細でちっぽけな用事を済ませてもらったところで、1000あった内の1か2を手伝ってもらうような気分だった。きっと、それでさえも、彼は自分の行いを恥じるどころか、自分の手柄に満足を覚え、鬼の首を取ったかのように振舞うのだろう。ほら、オレはこんなに優しい人間なんだ! オレには全く関係のない嫁の母親の世話までしてやったんだ! 

むしろ、彼に自分の代わりをしてもらうなど、御免蒙りたいくらいだった。今まで、たった一人でやって来た数えきれないほどの苦労が、この塵ほどの小さな願い事で全て帳消しになるような気がしたからだ。
それでも、塔子はまだ心のどこかで彼に期待をしていたのだ。それは他人から見れば馬鹿みたいにちっぽけな感情であろう。そう、塔子はまだ、心のどこかに彼を信じたい気持ちがあったのだ。彼、というより、世間一般の人がだいたい想像するであろう、理想の夫婦像のようなものを淡く期待していたのだ。否、夫婦像というより、人が人として人に対して接する際に持つ、優しい心を。慈しむ心を。彼がそれを忘れてしまっているなら、思い起こさせたい気持ちもあったのだ。

「うーん。オレ、年末だから、忙しいんだよね。遅くなってもいいなら、行ってやってもいいけど……」
「そう。○時までなら玄関から入れる。それ以降になるなら、裏に回って鍵を開けてもらって」
塔子は壁にもたれたままの姿勢で、一気に喋った。まさか、彼が行くと言い出すとは夢にも思わなかったのだ。彼はその後行くと言ってしまった自分に後悔しているのか、しばらくごにょごにょと仕事の話をしていたが、塔子は聞く気にもなれなかった。塔子は既に自分のキャパシティがいっぱいいっぱいになってしまっていたのだ。誰の言う言葉も、心には響かなかった。自分が黙ってしている事を、何故世間の人は隙あらば放りだそうとするのか。たとえ放りださなかったとしても、何故大騒ぎをして自分の成し遂げた成果を吹聴して回るのか。その時の塔子の心を占めていたのはそういった汚い感情で、それは何者であっても何事であっても、彼女の心を温かく解す事は不可能であった。

後に、塔子は自分が彼によってもたらされたこの事態に名前があると気付くようになる。それはまだまだ先の話だ。それは何年も何年も続き、確実に塔子の心を頑なにしたのだ。それは、母の介護があってもなくても関係なく、きっといつかは気付いたのであろう。

ありがたい事に、母がそのリハビリ専門病院に入院中、彼は合計二回、病気の塔子の代理や運搬作業などで塔子を手伝ってくれた。半年近く入院していて、二度も彼の手を煩わす困難な状況が発生したのだ。母が死に、全てが終わってしまった後、塔子はその二度の失態について、詫びた。半分は本当に感謝の心から。そしてもう半分は、完全に彼を蔑む気持ちで。彼が理解出来たのは、心からの感謝の方で、もう一方の嫌味という感情には、彼は純粋すぎるのか、全くもって気付いてはいなかった。

年が明けたある日、新しく移る予定である病院から連絡が入った。塔子は上田に連絡を入れ、日程に合わせて子供達の放課後や降園後の居場所作りの手配をし、また介護タクシーの手配をした。転院当日には、看護師長やお世話になった看護師数名、それに上田が見送ってくれた。担当の看護師はその日休みなのか、不在であった。
「よかったね、塔子さん」
上田はにこにこしながら塔子にそう声を掛けた。
「はい。上田さんには本当にお世話になりました」
塔子は深々と頭を下げた。
「これから、まだまだ大変な事がたくさんあると思うけど……頑張って」
上田が不意に呟いたその言葉に、塔子は何も言えず、ただ頷くのが精いっぱいだった。何かを口にすると、涙が溢れそうだった。鼻の奥がツンと痛い。一体、自分は何に対して泣こうとしているのか、それすらもわからなかった。

介護タクシーの運転手が母を車に移し、ロックを掛けて固定した。塔子はもう一度皆に頭を下げ、タクシーに乗り込んだ。
「さようなら」
「元気でね」
看護師達の声に塔子は手を振った。やがて車はゆっくりと走り出し、病院は小さくなって跡形もなく消えていった。


「母の入院生活」シリーズ



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